05/09/2026
2026年9月5日 サレジアン・シスターズ オンライン・ニュースより
【シスター カルメン・モレーノとシスター アムパロ・カルボネル:サレジアン・シスターズの殉教者、新しい人類の種】
2026年9月6日、スペイン内戦中に殉教した福者シスター カルメン・モレーノ・ベニテスとシスター アムパロ・カルボネル・ムニョス(サレジアン・シスターズ)の殉教から90周年を迎えます。
ローマ(イタリア): 1936年9月6日、スペインが内戦によって引き裂かれていたとき、シスター カルメン・モレーノ・ベニテス(1885-1936)とシスター アムパロ・カルボネル・ムニョス(1893-1936):サレジアン・シスターズは、バルセロナの競馬場で、ともに銃殺されました。二人の死から90年、そして列福から25年(2001年3月11日)を迎える今、最初の二人のサレジアン・シスターズの殉教者は、スペインにおけるサレジオのカリスマの女性的な顔を成熟した実りとして示しています。
シスター マリア・デル・ピラール・プリエト・スリタ(サレジアン・シスターズ)が執筆し、これらの記念の機会に出版された一冊の本は、二人の殉教者の生涯を、貴重な証言や思い出を集めながら語っています。扶助者聖母管区スペイン管区によってスペイン語で出版されたこの本のタイトルは、「愛のために自分の命をささげた。FMAシスター カルメン・モレーノとFMAシスター アムパロ・カルボネル。1936年の殉教者。2001年3月11日に列福」です。
著者は、とりわけ二人のサレジアン・シスターズの幼少期と青年期をたどりながら、サレジアンとしての召命の原点と、彼女たちを殉教へと向かう備えのある者にした自己奉献の姿を浮き彫りにしています。
カルメン・モレーノ・ベニテスは、セビリアから80キロ離れたビジャマルティンで、1885年8月24日、両親、兄のホセと姉のパス――それぞれ彼女より6歳、4歳年上――そして祖父母に迎えられて生まれました。生後11日目の9月4日、サン・バルトロメの保護のもと、サンタ・マリア・デ・ラス・ヴィルトゥーデス小教区教会で、マリア・デル・カルメン・ドローレス・ファビアナという名で洗礼を受けました。
6歳のとき、カルメンにはもう一人の弟が生まれましたが、その弟は急性気管支炎のため2歳半で亡くなりました。失ったのは彼だけではありません。カルメンは5人きょうだいの4番目だったと言われていますが、さらに二人が亡くなった可能性を裏付ける文書はありません。
1892年11月、わずか42歳で父親が亡くなりました。この悲しみは家族を大きく揺さぶりました。
おそらく、このような状況の中で、後年、姉のパスが語った出来事が起こったのでしょう。「覚えています」と彼女は言います。「ある満月の夜、私たちは、私たちのアンダルシアの大地に広がる、澄みきった明るい空を眺めていました。そのとき、カルメリタが言いました。『お母さん、どうして私は小さいときに死ななかったの』と。『どうしてそんなことを言うの、私の娘』『だって、ほら。もしあのように小さいときに死んでいたら、私は天国に行けると確信できたでしょうから』」
幼いころから、カルメンは非常に繊細な感受性と、神への強い望みを示しており、それはこのような出来事の中でも、さらに深められていったようです。
父親の死後、家族はカルメンの父方の祖父が住む町、ウトレラへ移りました。ウトレラは、1881年にサレジオ会員がスペインに初めて到着した町であり、そこではサンタ・マリア小教区教会と、カルメンの新しい住居の近くにあるエル・カルメンの教区の学校をサレジオ会員が担っていました。
家庭的な雰囲気に惹かれたカルメンは、サレジオの環境に加わり、ドン ボスコの聖母を愛することを学びました。彼女にとって摂理的だったのは、当時スペイン・ポルトガル管区長を務めていたフィリッポ・リナルディ神父との出会いでした。彼から、1894年4月11日、ちょうど彼がウトレラを訪問していた時期に、初聖体を受けた可能性があります。
その年、サレジアン・シスターズはセビリアのサン・ヴィセンテに修道院を開き、母親はカルメンと、姉のパスを寄宿生として入学させることを決めました。神への愛、素朴で喜びに満ちた姉妹愛、そして最も貧しい少女たちへの無条件の献身によって特徴づけられた、この生まれたばかりの共同体の中で、二人はサレジアン・シスターズになる決意を抱くようになりました。
パスは回想録の中で、幼いカルメンはとても善良で信心深く、賢く、穏やかで、決してわがままを言わなかった、と記しています。いつも、誰に対しても、とても愛情深く、誰にも苦しみを与えないよう気を配っていました。同級生で友人でもあったイシドラ・ロメロは、母親が二人の姉妹に当時の流行に合ったかわいらしいブーツを一足ずつ買ってくれたと語っています。彼女は持っていませんでした。母親がアメリカにいて、お金がなかったからです。カルメンは友人の悲しそうな様子を見て、母親に、自分のものとまったく同じ白いブーツを一足買ってあげてほしいと頼みました。
修練女となったカルメンは、師であったサレジアン・シスターズのシスター ロジーナ・カペッリの教えを実践しました。「神が私たちを導いてくださる道に、バラを撒きましょう。たとえ、その道で私たちを刺すアザミがあったとしても」。これはドン ボスコの「バラのトンネル」の夢と共鳴する言葉であり、彼女の全生涯の絶え間ない奉献の先触れでもありました。
アムパロ・カルボネル・ムニョスは、1893年10月8日、バレンシアで、経済的には恵まれないものの、周囲から尊敬されていた大家族の農家に生まれました。7人きょうだい――4人の女の子と3人の男の子――の5番目でしたが、ホセファとミゲリートが早くに亡くなったため、3番目となりました。
7歳年上の姉カルメンが、日中、彼女の世話をしていました。長女だったカルメンは、いつも命令したり支配したりすることに慣れていましたが、アムパロは黙っていることを好みました。両親は、カルメンの説明を信じて、アムパロをしばしば叱りました。アムパロは少しずつ、謙虚でありながら強く、寛大で、神を愛したいという大きな望みを持つ心を形づくっていきました。
彼女は農村の小学校に通い、裁縫と刺繍、カテキズム、祈り、歌を学びました。アムパロは非常に優秀な生徒でした。また、聖母被昇天小教区にも通い、マリア会に加わりました。アムパロが初聖体を受けたのは、1903年から1905年の間だったと考えられています。その後、学校を離れ、幼い弟妹の世話や畑仕事を手伝うために両親を助けました。1903年、サレジアン・シスターズがバレンシアにやって来て、サレジオ会員の近くに修道院を開きました。それは、ドン ボスコのサレジオ会の学校を除けば、社会的なサービスが何もない郊外の地域でした。アムパロはオラトリオに登録しました。そこでは、シスターたちの献身と、これほど困難な状況の中で予防教育法を生きようとする努力によって、活気に満ちた活動が行われていました。
何人かのシスターたちは、アムパロがいとこたちと一緒に熱心にオラトリオに通っていたと語っています。そこは彼女にとって第二の家でした。数年後、姉のカルメンが亡くなりました。アムパロは、その状況に穏やかな心で適応することができました。父親に付き添い、父親が売る品物を準備している間、彼女はミサにあずかり、その後、市場へ向かいました。責任感があり、誰に対しても親切で、人々に関心を寄せていました。彼女があまりにも若かったため、からかう人もいましたが、アムパロは、尊厳と分別をもって、皆に毅然と向き合う術を知っていました。ただし、誰かが一線を越えたときには、自分を守るために、強い態度に出ることさえありました。年月を重ねる中で、彼女の性格は穏やかになっていきましたが、自分の尊厳が脅かされたときには、決して反応することをやめませんでした。
1911年、スペインではゼネストが起こり、バレンシアは22日間にわたって悲劇的な出来事の舞台となりました。当局は戒厳状態を宣言しました。軍隊、治安警備隊、陸軍が教会や修道院を警備しました。9月18日から10月5日までの間に、およそ76人の兵士がシスターたちの家を出入りしました。アムパロの家族は貧しかったものの、畑で作ったものを市場で売りながら、それによって暮らしていました。シスターたちの共同体は、再び貧しさに苦しんでいました。アムパロは彼女たちのことを思い、祈り、危険を伴う解決策を考えました。二人の兄に話し、協力してくれるよう頼みました。早朝、まだほとんど明かりのない中、彼らは食料の入った大きな籠を運びながら、人目につかないよう家を出ました。道のりは長く困難でしたが、彼らはくじけませんでした。3週間にわたり、あらゆる危険を乗り越え、革命委員会の監視をかわしながら、サレジアン・シスターズとサレジオ会員を助けました。
1920年、幾度かのためらいの後、志願者として受け入れられたとき、アムパロにはすでに、最後まで自分をささげ尽くそうとする決意の芽があり、それが彼女を殉教へと導いていくことになります。
シスター カルメン・モレーノ・ベニテスとシスター アムパロ・カルボネル・ムニョスの殉教90周年にあたり、二人の信仰の証しは、福音が具体的な生活の中に生きられたしるしであり、それゆえ、非常に複雑な時代を生きる私たちにとって希望のしるしです。二人は私たちに、唯一無二の業を残しています。それは、彼女たち自身の生涯です。サレジオのカリスマから生まれ、新しい文明の種となった生涯なのです。