菩提眼 知恩報恩

菩提眼 知恩報恩 菩提眼は慈法法師の指導の下で、平成22年(2010年)に設立された団体で、?

浄土法門の特殊な特性慈法法師 浄土教は、すべての衆生に仏果を味わわせ、仏果を活かさせ、さらに仏果を心の支えにさせる目的で、これは不思議な利益です。類似の方法を教えるほかの法門はあるかというと、ありますが、ほんの僅かです。浄土教は一切の有情に...
26/02/2022

浄土法門の特殊な特性
慈法法師

 浄土教は、すべての衆生に仏果を味わわせ、仏果を活かさせ、さらに仏果を心の支えにさせる目的で、これは不思議な利益です。類似の方法を教えるほかの法門はあるかというと、ありますが、ほんの僅かです。浄土教は一切の有情に、直接に仏果の不思議な効用を体験させ、醍醐味を楽しませ、日常生活で運用させ、または仏の果地の覚悟を修行の縁起とさせる方法です。対照的に、ほかの法門は仏果の運用に多少制限をかけています。例えば、よく話題になる密教の修行方法では、修行者、時間と方法をそれぞれ選定しなければならなく、また、修行者は前行を行わなければなりません。
 平凡な有情にしろ、聖人にしろ、九界のすべての有情は浄土教の対象で、「九界の有情は同じ帰途につき、凡人も聖人も同じ方法で修行できる」というのは浄土教だけがもつ特性です。
皆さんにぜひこの特殊な法門の特性を知ってほしいのです。皆さん、阿弥陀佛のこの無限の慈悲を知らなければなりません。仏陀はこの世に現れるのは、すべての衆生を憐憫(れんびん)(注1)し、すべての衆生に本当の利益をもたらそうとするためです。浄土教はまさにすべての衆生にこの上なくすぐれた道を授け、仏陀の本当の目標を達成させることができる教えです。浄土教だけあって、衆生に本当の利益をもたらすという目標を達成できます。
みなさん、この特性をよく観察してください。かつて、ほかの法門の文字、教法と解説に触れたことがありますが、これらの法門は、本当に前提条件があります。例えば、師匠と弟子はお互いに適切な対象を選ばなければなりません。修行者は自分の現状をよく把握し、現状に適切な修行方法を選ばなければなりません。
 浄土教はそういうものにこだわらず、どの種類の有情であれ、平等に仏果を施しており、いわゆる「果地覚為因地心(かじかくいいんじしん)」(注2)という方法を提供しています。「九界の有情は同じ帰途につき、凡人も聖人も同じ方法で修行し、すべての有情は平等に摂取され、みんな往生できる」というのは、まさに浄土法門という特殊法門の特性です。一方、ほかの法門では必ず何かの条件が設けられています。これらの法門を敬うにしろ、見下すにしろ、必ず条件があります。条件を満たさなければ、これらの法門に入門さえできません。

 (注1)憐憫(れんびん) とは、かわいそうに思うこと。あわれむこと。
(注2)「果地覚為因地心」とは、仏は円満な覚悟を衆生に授け、衆生にその円満な覚悟を自分の修行の起点にさせる方法です。
生命之光
Light of Life
2021/11/05

心外に完璧を求めるのは外道の考え方で、永遠に得られない皆さん、自分をご覧ください。自分の状況に満足していますか。年寄りは死を恐れて、一生懸命に体を鍛えたり、マッサージしたりしています。子供たちは幼稚で無我夢中に遊んでばかりいて、時間を無駄に...
08/12/2021

心外に完璧を求めるのは外道の考え方で、永遠に得られない

皆さん、自分をご覧ください。自分の状況に満足していますか。
年寄りは死を恐れて、一生懸命に体を鍛えたり、マッサージしたりしています。
子供たちは幼稚で無我夢中に遊んでばかりいて、時間を無駄に過ごしています。
容姿の悪い人は整形やマッサージなどを行い、自分をきれいにしようとしています。
きれいな人は、よい容姿を保てないことを心配しています。
若者は老け込むことを心配して、必死に化粧しています。

自分が完璧だと思いますか。
安心していますか。
心が落ち着いていますか。
自分を直面する勇気がありますか。
自分を直面する意欲がありますか。
慌てなく人生の変化に立ち向かうことができますか。
その変化を尊重していますか。
仏陀を尊敬するように、自分の変化、生老病死、回りの様々な因縁を尊んでいますか。

もしこれらを尊重するなら、法界を包括する心、何の差し障りもない心が生じます。
この心は、仏の三十二相八十種好(さんじゅうにそうはちじっしゅこう)(注)そのものです。
老衰も変化もすべてちょうどいいことです。
美しいと思うものも、美しくないと思うものも、ちょうどいいです。
ちょうどいいと思うことは三十二相八十種好そのものです。

安心で穏やかであるからこそ、すべての因縁に、如実に対応できるからこそ、素直であるからこそ、思わせぶりでわざとらしいことをしないからこそ、自分を尊重し自分を大切にするようになれます。

皆様はみんな菩薩で、三十二相八十種好を備えています。
だから自分を尊重し、自分を大切にしてください。
心を落ち着かせてください。
自分の思いと言動を一致させてください。
明るくなってください。

何を恐れていますか。
美しいか醜いかの標準は何ですか。実はどれほど醜いものも、どれほど美しいものも、いずれ変わるでしょう。
なんで安心できませんか。

我々の心そのもの、我々の現状そのもの、我々の容姿そのものは三十二相八十種好を備えており、何かを恐れる必要がありません。

老け込むこと、醜く見えることを心配すれば、三十二相八十種好を備えなくなります。
自在な心を持たなければ、世間を照らせません。
自分の思いと言動を一致させず、自分をごまかして、自分に嘘をつけば、自分を軽視して自分の悪口を言う人、自分を尊重しない人になります。
それでまだきれいに見えますか。実はもうこの上なく醜いです。
自分を尊重しなければ、美しくなれますか。

皆様、もうこれ以上自分を苦しめないでください。
子供も、若者も、年寄りも自分を苦しめないでください。
自分が美しいと思う人も、醜いと思う人も自分を苦しめないでください。

そもそも我々はみんな完璧な心を備えています。
自尊、自愛、自由になって、解脱してください。
自分をけなし、自分の心を虐待しないでください。
自分を偽善的にしないでください。自分を見張らないでください。
思わせぶりでひねくれた性格にならないでください。
つまり自分を傷つけないでください

皆様、命は短いものです。
自尊しない理由、自愛しない理由はありません。
他人を尊重しない理由、他人を愛護しない理由はありません。
自分と他人を尊重し愛護することで手いっぱいで、人を傷つける暇がありません。わかりますか。
人生は短すぎて、善いことをする時間さえ足りません。悪いことをする暇がありますか。

一体なんで苦痛ですか。なんで自分を追い詰めますか。
なんで自分と他人を苦しめますか。
なんで他人を傷つけますか。

「私はもう老けた」とか、「私は醜い」とか、または「たくさんの過ちと罪を犯したので、懺悔しなければならない」といった言葉はよく耳に入りますが、これは自分を傷つけ、自分を侮辱することです。

自分を懲罰するのは謙虚で有益なこと、仏法にかなうことだと思い込んでいるが、実は十方世界の諸仏を誹謗することなのです。
心外に完璧を求め、心外の何かのもので自分を完璧にする考え方により、永遠に完璧になれません。これは外道の考え方なのです。

(注)仏の姿の 32の完璧な特徴を数え上げた語。釈迦像がインドで制作されはじめてまもなく起った考え方で,『大智度論』などの経典に述べられている。三十二相をさらに詳説したのが八十種好相で,『大般若経』などに述べられている。

四法印諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静     ーー慈法法師の書道如実に自分の業力に関する道理を悟れば、本物の修行者 我々は念仏者として、日常生活では障害、災いや挫折などに遭遇した時に、身を引いたり、恐れたりしないでください。 これら...
30/11/2021

四法印
諸行無常 諸法無我 一切皆苦 涅槃寂静
     ーー慈法法師の書道

如実に自分の業力に関する道理を悟れば、本物の修行者

 我々は念仏者として、日常生活では障害、災いや挫折などに遭遇した時に、身を引いたり、恐れたりしないでください。
 これらの出来事を急いで取り除く必要はなく、きちんと観察して、その真実を把握した上で、三宝のご加護を祈ればいいのです。そうすれば、これらの出来事は、逆に悟りを促進し、念仏を支えるものとなり、新しい世界を切り開いてくれます。
 ある法師様の説法を聞いた時、ぼんやりと疑問を感じました。なぜかというと、彼は、念仏者は病気などの不幸に会うことがなく、悪い報いに遭遇しないとおっしゃったためです。
 しかし、私の経験から言えば、そうではありません。念仏に励んでも、報いは相変わらず次から次へと現れ、一つも減ることがありませんでした。ただ気持ちは完全に変わりました。仏法の信者として、自分の果報、病気や悩みに「如実」に向き合えるようになっていました。
 この「如実」とは何かというと、それは物事の本性を知り、「諸法無我」、「諸行無常」、「一切皆苦」(注)などの事実を観察することなのです。
 我々は、ある物事に気を配って、固執したり排斥したりすれば、苦しい気持ちになります。逆に関連の道理を悟れば、心の中では、「法喜」と呼ばれる喜びが生じます。しかし一方、普通の人と同じように、相変わらず報いとなる苦痛に遭遇します。
 修行を異常なこととして考えるため、数年間の修行を積んだが、相変わらず挫折、病気に遭えば、仏法のせいにする人は少なくありません。そういう人は「この法門はよくありません。こんなに長く修行したのに、なんでまた病気になるのですか。あの法門はどうですか」と思いがちです。
 このような考え方は、妥当ではありません。なぜかというと、釈迦牟尼仏のような聖者も、80歳に涅槃し、涅槃前にいくつかの病気に掛かったことを示してくれました。我々普通の人は、仏法を学んでいるとしても、相変わらず様々な災いに逢います。
 我々は自分を騙してはいけません。修行者は自分の業力について関連の道理を悟れば、本物の修行者と言えます。
 本物の修行者となりますように、一緒に諸仏、三宝に祈りましょう。

(注)「四法印」の内容を指す。「四法印」とは仏教の重要な原理であり、この世の真理を四つにまとめたもの。
一切皆苦(いっさいかいく)一切の形成されたもの(行)は苦である。
諸行無常(しょぎょうむじょう)一切の形成されたもの(行)は無常である。
諸法無我(しょほうむが)一切の事物は無我である
涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)涅槃とは先にあげた三つを覚りの智慧によって観察することで得られるものであり、繰り返される事物の生滅が停止した寂静の境地である。

仏陀と縁をつなぐ【石碑名称:西安碑林博物館 朱補伯造像碑】【時代:北魏建明二年(531年)】【高さ178CM 広さ85CM 厚さ19CM】【1959年中国陝西省華県から出土】実際過去に「念仏、念仏」とよく言っているのが、仏様へのお祈り、関係...
20/09/2021

仏陀と縁をつなぐ

【石碑名称:西安碑林博物館 朱補伯造像碑】
【時代:北魏建明二年(531年)】
【高さ178CM 広さ85CM 厚さ19CM】
【1959年中国陝西省華県から出土】

実際過去に「念仏、念仏」とよく言っているのが、仏様へのお祈り、関係の維持です。過去は縁をつなぐといいます。

このような関係の維持、往来を与えると、それによって変化が起こり始めます。我々が想像つかない効果があります。

たとえば大きな成果を上げた方々と縁をつなぐことで、人生が変わっていきます。または錬鉄炉が不純物の入った鉱石を鋼に変えることができるように、大きな成果を上げた方々の力で、その作用が顕著であり、無限に拡大することができます。
                   ーー慈法法師

浄土法門は易行で、心を休めれば明るく楽しく生きられる慈法法師:(あるお年寄りの弟子に対し)あなた様、この念仏法門で自分を安心させることができます。この法門は、苦しみを避けて安楽を求める目的ではないですが、この法門の明るい楽しい修行方法で明る...
30/07/2021

浄土法門は易行で、心を休めれば明るく楽しく生きられる

慈法法師:(あるお年寄りの弟子に対し)あなた様、この念仏法門で自分を安心させることができます。この法門は、苦しみを避けて安楽を求める目的ではないですが、この法門の明るい楽しい修行方法で明るく楽しく生きられます。この法門を通して、どんな出来事に遭遇しても、心を休めることが実践できます。例えば、例の病気にかかった比丘尼(びくに)(注1)はおかしいことに、寺の中の人や周りの人に嫌われるようになって、精神的ダメージを受けました。どう対応すべきですか。これまで積んだ修行は役に立ちませんか。平素より阿弥陀仏を思ったり念じたりすることに慣れれば、念仏しているか否か、仏様の大願を念じているか否かに集中し、少なくとも病気や、痛みや業力などを気にしなくなり、これらのことに簡単に対応できます。災難や、病気や悪運がやってくるなら、これらのことは念仏のエネルギーに転換し、念仏で対応できます。そうでしょう。これらのことを避けず、念仏を後押しする動力にできます。逆に、これらのことに対抗する場合も、その影響から抜け出せない場合も、これらのことに左右されて辛くなります。これらのことに対抗し、溺れたりするのは明るく楽しく対応する方法です。
 あなた様、浄土法門の修行は苦行(くぎょう)(注2)ではなく、易行(いぎょう)(注3)と言われますが、易行とは何でしょうか。すべての衆生は苦しみを嫌い、明るい楽しい修行方法で明るく楽しく生きることを望んでいます。浄土法門は、まさに極楽世界の極めて楽しい修行方法です。もし、(浄土法門の)修行の因縁を間違えれば、苦しい修行になります。過去の一部の法師の説法は浄土法門の教えと一致していないと言えるが、祖師たちに反論するわけにはいきません。このため、我々は経典の教えに従うべきです。苦行で安楽になる修行方法もあれば、楽しい修行で安楽になる修行方法もあります。果地覚(かじかく)は楽しいこと、果地覚為因地心(かじかくいいんじしん)(注4)は明るい楽しい修行方法で明るく楽しく生きていくことです。この要点をちゃんと掴んでください。
 あれこれ急いで自分の心を疲れさせる必要がありません。自分を疲れさせる修行方法ではなく、心を休める修行方法を選んでください。
 もし心を休める修行方法を選ぶなら、年を取れば取るほど、人生が気楽になります。なぜかというと、負担が少なくなるためです。若者はまだ人生が長く、情欲、名声、富などの世俗的な欲求を断念していないかもしれないが、我々年配者はちょうどこれらの欲求を気にしないためです。そうでしょう。もっと気楽になります。若者はまだ生存、衣食のために苦労しているが、あなた様は、これらの苦労をする必要がなく、のんびりできます。

年配の弟子:浄土法門の中で、慈法法師の説法は最もいいです。

慈法法師:私の伝えているのは最もいい説法ではなく、最も使いやすい方法です。また、自分の考えではなく、必ず経典に基づいて説明しています。一部の祖師は大衆の考えに迎合(げいごう)するため、苦が修行を促進できるとか言っています。私は皆さんと一緒に戒律を勉強する際に、皆さんとの親しみと交流を深めるために、同じことを言いましたが、現在では、このような世俗的な考えを交流すればするほど、他人を業力の罠から脱出させにくくなると思うようになっています。それは業力の現象は雑乱過ぎて、はっきりと分析しにくいためです。
 人間は落ち着くと、仏法を忘れ、識心(しきしん)(注5)を稼働させて名聞利養(みょうもんりよう)(注6)、メンツや見えっ張りなどを求めるようになるのは一般的です。例えば、平素はいくら綺麗事を言っても、メンツを潰されたら怒ります。昔は私のために指や頭を切ったり体の一部を燃やしたりしてもいいという人がいましたが、少し侮辱してみたらすごく怒りました。  
 「さきほど私のために頭を切ってもいいと言ったのに、ちょっと侮辱したら耐えられなかったね」と言いました。このため、これは一時的な感情、一時的な勇気、または何かの話を聞いて気心の知れた友人だと思って一時的に気持ちが良かっただけです。もし本当に彼の習慣を指摘したら、その人の自我意識を傷つけることになり、すぐ反目されます。
 このため、これを変える勇気があれば、本当に心を休められます。どんなものを変えるかといえば、心の底に潜んだ、メンツや見えっ張りを気にしたり、生死や病気を恐れたりする自我なのです。これは関門です。平素は仏教徒であるが、この関門に来たら、ボロを出してしまいます。百人を試したら、百人がそうです。

年配の弟子:すべての外縁を手放して阿弥陀仏だけを思えば、すべてがはっきり分かります。

慈法法師:そう、そう。赤ん坊を見てください。赤ん坊は弱いため、母親は全力を尽くして赤ん坊の世話をするでしょう。赤ん坊を生んで育てるのは母親の誓願です。阿弥陀仏は親よりもっと細かく世話をしてくれるのに、なぜ皆さんは阿弥陀仏のところで安心できないのでしょう。「阿弥陀仏は母親のようにずっと我々のことを思ってくれているが、我々子供は同じように阿弥陀仏という母親を思えば、阿弥陀仏から離れることがありません」(注7)。阿弥陀仏を信じて、自分の願いを阿弥陀仏の願力に合わせれば、心を休められないわけがありません。無価値、無意味なことに気を配らなければ、きっと本当に心を休められます。
 あなた様、私たちはニュージランド、または中国からここ(フィジー)に来ましたね。何のためにここに来たのでしょう。自分の平素の考え、言説と行為を考えてみましょう。もし本当に仏教を学びに来たなら、常に阿弥陀仏を思って念仏しているでしょうか。他人に教える必要がないが、ただ自分の現状を見つめてください。拳術、声楽を習う人が常に練習しているように、いつも念仏に集中しましょう。だんだん念仏に慣れれば、自然と念仏者、易行の浄土法門の信者、ものわかりのよい人になります。他人と自分を称賛したり、誹謗したりせず、ただ清浄・平等な人になりましょう。仏陀、仏法と僧団を念じれば、心を穏やかにして、心を休めて、無諍(むじょう)(注8)になることが可能です。さきほどこの方は無諍と言ったが、本当に無諍になれます。
 例えば、今日はまた言い過ぎたとか、よく自責する考え方は時間を無駄にしている対応方法で、もっといい対応ができると思います。言い過ぎたと気づいたら、すぐこの不適切な言葉の自性(じしょう)(注9)が何なのか、この言葉の代わりに念仏すればどんな効果が出るのか、この言葉を考え続けていけばどんな効果が出るのかを考えてください。自責は実際の役に立ちません。対照的に物事の本質を見抜いたり、直接に念仏の角度から物事を観察したりすれば、その物事の影響を解消して、その物事を無意味にするという根本的な方法で対応できます。この対応方法は反省と自責より徹底的です。

年配の弟子:念仏は滋養となります。元々は酸素濃縮装置を使って酸素を補給しなければならなかったが、現在では使わなくなっています。阿弥陀仏を唱えて呼吸すれば、酸素が足ることになります。阿弥陀仏はよい滋養です。

年配の弟子の娘さん:じゃ、お医者さんはやることがなくなりますか。誰でも滋養を受けられますか。

年配の弟子:阿弥陀仏は、よい滋養です。

慈法法師:それはいいです。阿弥陀仏を思って念仏するのはいいです。

年配の弟子:師父、お体を大事にしてください。この夏は痩せましたね。元気そうに見えますが、結構痩せましたね。食事が進みませんですか。もっと食べてくださいませんか。

慈法法師:体は大丈夫です。

年配の弟子の娘さん:師父は仏力の話をしてあげるのに、何でまた業力の話題に切り替えましたか。師父はさきほど、量が少ないが、栄養バランスの良い食事をしていると言いました。

慈法法師:それは同じです。次の秒を待つ必要がありません。この易行道を好まないのは誰か1人の状態ではありません。仏陀は「仏説無量寿経」で、「易往而無人(いおうにむにん)」(注10)と言いました。仏陀も衆生の状態を知っています。これは誰のせいではなく、因縁によって生まれる状態で、誰かの責任にするのは役立ちません。
 私は根気よくやり続けるのは、仏陀はこれがすべての世間でも信じがたい法則であるとおっしゃったことがあり(注11)、この法則を1回だけ話しても、一通り実践するチャンスをもたらせると思うためです。さもなければ、私もやり続けられません。毎回交流する際、誰でも次の秒にやろうという話に移り、私はいつも次の秒を待つ必要がないと教えています。お母さんは特別だと思わないで、誰でもそうです。
 過去何人かの僧侶と付き合った時、ほとんど彼らの発言を禁じました。なぜかといえば、説法を聞いたら、自分で考えたり議論したりする空間を与えないためです。勝手に話すのは大変なことになります。昔、数人と一緒に草屋(くさや)に住んだことがありますが、静かな空間でした。念仏を除き、誰かが話したら、出ていきなさいという規定がありました。大声で念仏してもいいし、法器(注12)を叩きながら念仏してもいいです。しばらくして、発言禁止を実行しなくなりました。なぜかというと、心の中の考え方を変えられないためです。誰でも他人の考え方は変えようがありません。内心は因で、自分でしか把握できません。ほかの人は把握できません。
 仏陀は、我々の心をコントロールするなら、教育の種を撒くためです。それは問題がありません。しかし、仏陀は最大の自由民主主義者で、現下で皆さんの心をコントロールするに忍びません。我々は心を見失っても、仏陀は我々の心をコントロールしません。
 ところで、密教の中には強制的な法則がありますが、被教育者がまず進んで四帰依(注13)の誓願を立てることが前提です。誓願を立ててから、心をコントロールされるようになります。顕教(けんきょう)には、強制的な法則がありません。繰り返して説明するしかありません。
 もし、我々は成熟した人になって、この法則を通して生命の価値を実現でき、この法則に基づいて観察したり思考したり話したりすべきと思うようになれば、それは最高にいいことです。なぜなら、この法則は真実で有意義な話であり、ほかの言葉は無意味なのです。我々は何で普段無意味な話を交わすかと言えば、世俗的な世界で暮らしており、世俗的な話を言わないと交流できないためです。それでは、どうしたら良いかと言えば、少なくとも自分が無意味な話しをしていることに気づくべきなのです。
        ー2020年12月フィジーの弟子との対話

(注1)所定の戒を受けて仏門に入った女子修行者。転じて一般に、尼僧。
(注2)堪えがたい程の苦しみを伴う修行。仏教などで、肉体の欲望を押さえる修行。
(注3)易行とは修行の容易な行、もしくは往生(おうじょう)のし易(やす)い行法をいう。難行に対する語。龍樹(りゅうじゅ)の『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』第五易行品(いぎょうほん)には、信方便(信心の方法)の易行によって阿惟越致地(あゆいおっちじ)(不退転の境地)に至るとし、称名(しょうみょう)により不退転に至るを易行と名づけた。中国において曇鸞(どんらん)は、『浄土論註(じょうどろんちゅう)』を著し、易行道を信により仏願力に乗じて浄土に至る道とした。わが国において易行を重視したのは浄土宗および浄土真宗である。易行道について、真宗は、現生(げんしょう)(現世)で不退転に至ることを説き、その点で浄土宗とは異なっている。日本大百科全書(ニッポニカ)より善巧とは人々の機根に応じて巧みに善に教え導き、仏の利益 (りやく) を与えること。荘厳とは智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ること。
(注4)因地とは菩薩が仏になるために修行をしている間の境地、果地とはその因地の修行を成就して仏となった境地をいう。果地覚為因地心とは、すでに極楽浄土に往生した菩薩のように自分を見なし、阿弥陀仏と同じ思考・意志、言葉、行動を取る修行方法で、浄土教の特殊かつ根本な教義である。
(注5)仏語。心のはたらきの主体としての、六識または八識。
(注6)世間の評判や名声を求めたり、財を貪り私腹を肥やしたりすること。名誉欲と財欲のこと。略して名利とも言う。
(注7)この例えは「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経・大勢至菩薩念仏円通章」から引用されるものである。原文:十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。もし子、逝逃せば、憶ふといえども何かせん。子もし母を憶すれば母の〔子を〕憶ふ如くなる時は、母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前にも当来にも必定して仏を見たてまつり、仏を去ること遠からずして、方便をからずして、おのづから心開かるることを得ん。
(注8)無諍(むじょう)とは争いがないこと、すなわち心のなかの葛藤・迷いがないこと。また諍は煩悩の意にも解される。
(注9)仏語。そのものが本来備えている真の性質。真如法性(しんにょほっしょう)。本性。
(注10)仏語。阿弥陀仏の誓願を信じる者はたやすく極楽往生できるが、実際にはそういう者はごくまれであるということ。「大無量寿経」にある語。
(注11)「仏説阿弥陀経」の訳文:釋迦牟尼仏は、 世にもまれな難しく尊い行を成しとげられた。 娑婆世界はさまざまな濁りに満ちていて、 汚れきった時代の中、 思想は乱れ、 煩悩は激しくさかんであり、 人々は悪事を犯すばかりで、 その寿命はしだいに短くなる。 そのような中にありながら、 この上ないさとりを開いて、 人々のためにすべての世に超えすぐれた信じがたいほどの尊い教えをお説きになったことである。
(注12)法要などに使う器具。
(注13)帰依(きえ、巴: saraṇagamana、梵: śaraṇagamana)とは、拠り所にするという意味。四帰依とは、仏陀、仏法、僧団と阿闍梨に帰依することである。

我々には壊れない絆のある伴侶がいる――諸仏菩薩 我々は、自ら進んで三宝に帰依(注1)すべきで、誰かに勧められて帰依するなら面倒くさいことになります。必ずここ(師父は指で心臓の位置を指した)から帰依したいという気持ち、真心と清浄心を持って帰依...
18/06/2021

我々には壊れない絆のある伴侶がいる――諸仏菩薩

 我々は、自ら進んで三宝に帰依(注1)すべきで、誰かに勧められて帰依するなら面倒くさいことになります。必ずここ(師父は指で心臓の位置を指した)から帰依したいという気持ち、真心と清浄心を持って帰依すべきです。
何のために帰依しますか。仏陀と我々との違いを考えてご覧なさい。皆さんは本当に帰依したいかどうかは知りませんが、真に帰依したい人は挙手してください(帰依する人はすべて挙手した)。
 そうです。帰依を大事にしてください。皆さんは挙手する際、偽りのない気持ちを表しました。どれほど真摯なのかと言えば、何も恐れなどないのです。さもなければ挙手する勇気がありません。偽りの心があったとしても、挙手する際に偽りの心を取り除くべきです。
 皆さん、我々、帰依者ははるかな久遠の昔から、偽りのない心を知らないかもしれません。我々には父親、母親、親族はいるが、壊れない絆のある伴侶、壊れない絆のある眷属(けんぞく)(注2)、壊れない絆のある教授者、壊れない絆のある守り人はいません。我々は変わらぬ真実な功徳蔵に守られたことがありません。
 三宝、諸仏菩薩はなぜこの世に応化しますか。諸仏菩薩は俗世間に入ることも俗世間を離れることも、来ることも去ることもなく、ただ法界、悟りの境地に安住し、悟りの安楽を享受しています。彼らは涅槃(注3)の境地に居ながら、無量の善巧(ぜんぎょう)・荘厳(しょうごん)(注4)を示しており、我々のように不便な生活状態ではありません。諸仏菩薩は末世(まっせ)・濁世(じょくせ)(注5)の有情を憐憫(れんびん)するため、この世に応化するのです。
 例えば、本師釈迦牟尼仏(ほんししゃかむにぶつ)(注6)は五百大願を立てて、この世に応化したのです。何のためにこのような行動を取るかと言えば、我々に壊れない絆のある伴侶、無上の伴侶、本物の伴侶がいることを教えてくれるためです。この伴侶は諸仏菩薩です。現在の夫婦、子供、親族はいずれ我々との関係を変えたり関係を壊したり亡くなったりします。これは誰でも止められない生命の自然な変化の結果です。
 法界の中で、いかにして拠り所を見つけられるすか。帰依三宝はゲームではないし、宗教のことではありませんが、宗教の形でこの世に現れ、有情(注7)を教育して正しい信仰に導いています。仏像は仁者(じんしゃ)の像であり、我々有情の円満な心を具現化した像、我々有情、特に帰依した有情の智慧・道徳を具現化した像です。
 仏・菩薩の像を家に安置して拝めばいいと思う人はいるでしょう。しかし、仏・菩薩のことを大事にしたい気持ちがないなら、仏像を家に安置して拝んでも役立ちません。対照的に、仏・菩薩のことを大事にする人は仏像を拝めば、喜ばしい気持ちになり、恩恵と加護を受け、また、誰かに功徳を回向することができます。なぜかと言えば、仏・菩薩を自分の母親、父親と親族として見なせば、自分の拠り所として仏・菩薩に親しむことができるのです。三宝に帰依することは同じ効果があります。
 一切の仏像、僧侶の姿、経典はすべて安心、慚愧、慈悲を生み出すように導いてくれる巧妙な方法だと思えば、これらの形象に帰依でき、そして心の中の本当の慕い尊びを生み出せます。このため、形象の帰依はなければ、心の帰依はあり得ないと言えます。形象の帰依は心の帰依を示します。心の帰依をはっきりと表せば、堂々とした心で、安楽に生きられます。苦難に遭遇しても、過去世の業力(ごうりき)および因果の法則によるものだと知り、心は平和になることができます。
 無量の輪廻の中で、1つの生命の誓願を本望(ほんもう)として守れば、残忍なことを離れ、平和な人、嬉しい人、衆生を慰める人になることができます。誹謗、傷害、恨みを離れれば、この苦しい世界で楽しく生きる人、この逆さまの世界で正しい知見を持つ人、この濁り汚れた世界で清浄な人になることができます。この清浄さは誰でも必要なことです。

 維那(注8):起立して礼拝してください。(帰依者は起立して礼拝した)
 慈法法師:仏法は世間一般の人々に公開され、真実で疑いを差し挟む余地がない法則です。仏法は四無畏(しむい)(注9)を生み出し、一切の邪見を取り除き、光明と守護を与えてくれる清浄な法則です。我々は誰でも、心の中に言葉で描写できない蓮華を咲かせており、この蓮華は過去から未来までずっと清浄で輝かしい光を放っており、我々の最も円満な願望を背負っています。
 誰もが心の奥に最も円満な願望が潜んでいますが、自分でもこの願望を知らないかもしれません。このため、三宝に啓発してもらう必要があります。
この要点――三宝帰依関連の教義、意義と功徳はぜひ皆さんに理解していただきたいです。そうすれば自分の生命を大きく変え、本当に帰依を通して守護されるようになり、伴ってきた生死輪廻、煩悩、業障などと別れ、諸仏・菩薩の伴侶になることができます。
ーー2004年農暦7月15日 帰依儀式を行う前の談話

(注1)仏陀と法と僧を信じてその力にすがること。
(注2) 眷属(けんぞく)とは、血のつながっている者。
(注3)一切の煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)した、不生不滅の高い境地。
(注4) 善巧(ぜんぎょう)とは、人々の機根に応じて巧みに善に教え導き、仏の利益 (りやく) を与えること。荘厳とは智慧・福徳・相好などで浄土や仏の身を飾ること。
(注5)仏教で、濁り汚れた世の中。
(注6)根本の導師。特に、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)のこと。
(注7)有情とは仏語。感情や意識など、心の動きを有するもの。人間・鳥獣など。衆生。
(注8)寺院で僧に関する庶務をつかさどり、またそれを指図する役職。 都維那 (ついな) 。
[補説]禅宗では「いの」「いのう」と読む。
(注9)仏語。 仏・菩薩(ぼさつ)が説法する際に抱く、畏(おそ)れることのない4種の自信。 仏では、一切智無畏・漏永尽無畏・説障道無畏・説尽苦道無畏、菩薩では、能持無畏・知根無畏・決疑無畏・答報無畏。

妄想は不可得、無諍は海のごとく  弟  子:阿弥陀仏。師匠、1つ聞きたいことがあります。朝夕勤行(ごんぎょう)と念仏の時、たくさんの妄想(雑念)が浮かんできます。 慈法法師:無諍(むじょう)(注1)の誓願を立てましょう。どんな思いが出ても、...
27/04/2021

妄想は不可得、無諍は海のごとく

 弟  子:阿弥陀仏。師匠、1つ聞きたいことがあります。朝夕勤行(ごんぎょう)と念仏の時、たくさんの妄想(雑念)が浮かんできます。
 慈法法師:無諍(むじょう)(注1)の誓願を立てましょう。どんな思いが出ても、その思いに向かって「どんどん来なさい。来ても争わないよ」と言いなさい。そうすれば、すべての川を受け入れ、すべての受け入れた川の水を同じしょっぱい海水に変える海のように、すべての思いを平気で受け入れられます。
 妄想を怖がることは、逆に妄想を増殖させます。対照的に、リラックスして妄想を受け入れれば、妄想はだんだん無くなります。なぜかというと、妄想は仏を念じたり仏を思ったりすることを後押しするパワーになるのです。
 我々は妄想を怖がるが、実は、妄想は不可得(注2)なのです。なんで妄想を恐れますか。無諍は海のようにすべての物事を受け入れます。自分は妄想を受け入れられないと思うなら、阿弥陀仏を唱えてから受け入れましょう。これは一念法という念仏方法です。
 妄想を怖がる人は多いですね。妄想は虚しいものなのに、なんで妄想を恐れますか。実は物事の本質を見破れば、その物事に影響されなくなります。
 このため、ヴィパッサナー瞑想(注3)を修行する場合、何かの光景が見えたら、その光景にふさわしい名で呼ぶべきです。天台宗の教義を読んだ人が大勢いるでしょう。天台宗の教義によれば、座禅する場合、いつか何かの光景が見えたら、直接にその光景の名を呼ぶべきです。そうすれば、その光景を見破り、その光景を崩壊させることができます。このため、妄想は来たら、「あなたは妄想だ」と言えば、妄想は崩れます。
(注1)無諍(むじょう)とは争いがないこと、すなわち心のなかの葛藤・迷いがないこと。また諍は煩悩の意にも解される。
(注2)すべての存在は空 (くう) であって、固定的なものは何も得られないということ。
(注3)ヴィパッサナー瞑想(ヴィパッサナーめいそう、巴: vipassanā-bhāvanā)は、ナーマ(こころのはたらき、漢訳: 名〔みょう〕)とルーパ(物質、漢訳: 色〔しき〕)を観察することによって、仏教において真理とされる無常・苦・無我を洞察する瞑想である。

2013年、慈法法師が庐山で開示した「浄土宗の伝承と誓願」の抜粋より

阿弥陀仏は、母親が子供を思うように、すべての衆生に心をかけています。ーー慈法法師の題字 信仰によるサポート 現代の人々は、仏・菩薩、信仰、自分の師匠などと絆を結ぶことはめったにありません。例えば、私と師匠との関係を言えば、私のすべての心念、...
25/02/2021

阿弥陀仏は、母親が子供を思うように、すべての衆生に心をかけています。
ーー慈法法師の題字

 信仰によるサポート

 現代の人々は、仏・菩薩、信仰、自分の師匠などと絆を結ぶことはめったにありません。例えば、私と師匠との関係を言えば、私のすべての心念、言葉は師匠から離れては成り立たず、師匠がよく知っているほど緊密な関係なのです。言葉だけでなく、師匠のためには何でも全力を尽くしています。
 師匠が亡くなったことを知った時、何もかも置いて、10時間かけて、鶏足山から師匠の寺院に駆けつけました。寺院に着いた時、師匠の体はまだ温かくて体温が低下していませんでした。師匠の死後の全てのことを片付けるために、師匠のもとへ一生懸命に駆けつけました。納棺など、最後まですべてのことを手伝った後、任務完了だと思いました。「この寺を継ぐためだろう」とほかの人に言われ、「そんなことはありません。ここに住む同門の人が大勢いて、彼らに継いでもらいましょう。私は師匠のことだけ処理したいのです」と返事しました。
 師匠、仏・菩薩との関係を慎重に築くべきです。我々は母親と子供がお互いに思い合うように、師匠、仏・菩薩のことに心をかけるなら、本当の絆を結ぶことができます(注1)。そのような絆がなければ、何もかも無駄です。
 わたしは、そのような絆を育てる経験があります。その時、本当に阿弥陀仏を念じていました。また、他人が阿弥陀仏を唱える声を聞いたとき、涙が止まりませんでした。なぜかというと、その人は本当に福報のある人で、その人のおかげで仏様の名を聞けたと思ったのです。これが信仰の現れです。
 信仰があるため、仏・菩薩などとの血肉のつながりを持つことができます。このような関係を築かないままで祈祷するのは、まるで街で偶然に出会った人に「助けてください。私は病気です」と助けを求めることと同じです。自分のことを知らない人に助けてもらうのは難しいのです。普段は仏・菩薩を無視しているでしょう。
 私は昔から仏・菩薩を大事にしています。例えば、経典を乱雑に放置することは絶対許さず、きちんと並べ直しています。また、仏像を低いところに置くことは絶対許さず、尊敬を表すために高い位置に安置しております。親より仏・菩薩を尊敬しています。
 なぜかというと、これは信仰に基づく関係なのです。昔はそういう雰囲気の環境の中で育てられ、自分に対しても他人に対しても厳しく、少しも油断することができませんでした。振り返ってみると、今の人々は、そのような教育を受けるチャンスがなく、信仰に全身全霊を注ぐしかありません。特に在家者は自由過ぎて、そういうチャンスがありません。
 例えば、新型コロナウィルスが蔓延する中、イタリア、フランスなどの人々は「自由がほしい。マスクはいらない」などのスローガンを掲げて抗議しています。現代の人々は自由のみを欲しがり、信仰や血肉のつながりなんてどうでもいいと思っています。そのような関係は存在しないと思っているでしょう。
 よく考えてください。このため、阿弥陀仏と同じ自性(注2)を念じてから念仏すれば、親近感を感じるかもしれません。なぜなら、外の阿弥陀仏と我々の自性が完璧に結びついているからです。我々は普段、阿弥陀仏および阿弥陀仏の様子、作用を気にしていません。阿弥陀仏を大事にすれば、阿弥陀仏の作用は不思議なほど大きいことが分かります。両親が娘のことばかりを思うように、阿弥陀仏を念じるべきです。
 阿弥陀仏は衆生のことを大事に思っており、「もし私の国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」(注3)と誓いました。「もし私の国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」という願望の深い意味を理解できますか。
 阿弥陀仏は母親のように我々の慧命(えみょう)(注4)に心をかけてくれています。「もし私の国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」という考え方を持っていますか。持っていないなら、この大願を繰り返して唱えてください。我々は普段、「阿弥陀仏、私は神通力がほしい」とか、「阿弥陀仏、私は禅定や念仏三昧に入りたい」とか、「阿弥陀仏、私は苦難を離れて安楽を得たい」とか、自分のことばかり考えており、これでは阿弥陀仏と結び合えません。
 信仰のこと、今、多くの浄土宗の修行者は信仰の教育を受けていなく、阿弥陀仏に要求ばかりしています。信仰とは、自性と外の阿弥陀仏がまったく同じで完璧に釣り合うことを認識することです。信仰、宗教との絆は、家族のようにサポートしてくれます。これは本当に不思議なことです。
 私は何事をやっても、師匠および歴代の善知識(ぜんぢしき)(注5)にサポートされていると思っています。さもなければ、その度胸はありません。
            ‐‐2020年3月某居士の家での雑談

(注1)この例えは「大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経・大勢至菩薩念仏円通章」から引用されるものである。原文:十方の如來、衆生を憐念すること母の子を憶ふがごとし。もし子、逝逃せば、憶ふといえども何かせん。子もし母を憶すれば母の〔子を〕憶ふ如くなる時は、母と子、生を歴(ふ)るとも相違遠せず。もし衆生、心に仏を憶ひ仏を念ずれば、現前にも当来にも必定して仏を見たてまつり、仏を去ること遠からずして、方便をからずして、おのづから心開かるることを得ん。
(注2)衆生が持つ仏としての本質、仏になるための原因のことを指す。
(注3)「仏説無量寿経」に記載される阿弥陀仏の大願である。
(注4)仏語。悟りの智慧を生命にたとえた語。法命 (ほうみょう) 。
(注5)仏語。人々を仏の道へ誘い導く人。特に、高徳の僧のこと。

真心妙用 (宇宙の真実を把握し、心をうまく運用すること)     ーー慈法法師の題字自業自得を心得、主導権を握る 仏教では、自業自得と心作心是(しんさくしんぜ)(注1)がよく議論されます。また、日常生活では、「あら、結局、この人は自業自得だ...
20/12/2020

真心妙用 (宇宙の真実を把握し、心をうまく運用すること)
     ーー慈法法師の題字

自業自得を心得、主導権を握る

 仏教では、自業自得と心作心是(しんさくしんぜ)(注1)がよく議論されます。また、日常生活では、「あら、結局、この人は自業自得だ」という話をしばしば耳にします。実は、この話は非常に大切なことなのです。なぜかというと、我々は自発的な人生を送るか、受動的な人生を送るかは、すべてこの2つのポイントに対する認識によって決められるのです。
 本当に自業自得を理解すれば、実は、この言葉は、ありのままに自分自身の因縁果報に立ち向かうことを教えてくれることが分かります。因縁果報(いんねんかほう)(注2)は他人がもたらしてくれたものと思えば、まったく違う結果になります。我々はいつも自分の因縁果報を二つの部分に分け、その中の一部を、他人または社会・環境がもたらしてくれたものだと思うなら、人生はおしまいです。なぜかというと、人生は受動的になり始めるからです。結局、自分を失い、自分の果報を主動的に運用できなくなるのです。
 実は、主動的な人は運用者と呼ばれ、主動的に果報、つまり現行(げんぎょう)(注3)を運用でき、現行を福報(注4)に転換でき、福報が多い人および人生の主導権をしっかりと握る人になります。もし被動的に果報を受けるなら、自分の業力、社会、環境および他人に左右されやすくなります。このような人は、左右された人生を経験し、このような人生が苦しい、圧迫な状態だと分かります。そうすれば、果報がただの果報になります。同じ物事について、「これは自業自得だ」と心得れば、主導権を自分の手に握れるようになります。
 自業自得は、社会でよく言われる俗語ですが、不思議な哲理を含んでいます。日常生活でこの哲理を活用すれば、人生にとって利益をもたらすことがあり得ます。仏教では、これを「心作心是」と言います。実は能動的に自分の心・意志・口を運用すれば、果報を福報に、つまり福徳と知恵を同時に積むことに変えられるのです。能動的な運用は福徳と知恵そのものなのです。
 被動的な人は苦しくて圧迫な生活を送り、なんとも仕方がない状態に陥ります。果報そのものはどうしようもないことです。なぜかというと、社会、環境、他人のせいにすれば、責任を取れず、主動的になれないからです。結局、果報は果報のままで、くり返し輪廻の苦を受けることになります。
 現行は、すべて自分の作った業力による報いであることを認識すれば、問題は簡単になります。本当に自業自得なのかを一緒に分析してみましょう。どんなことでもいいですが、社会、環境、他人がもたらしてくれた果報だと思うなら、例として挙げてください。これらの例をよく分析すれば、結局、すべて自業自得にほかならないことが分かります。
 「心作心是」というレベルの分析はさておき、まず世間話をしてもいいです。まぎれもなく他人、社会に押し付けられた果報だと思う物事を挙げましょう。もし、ちゃんと観察・思惟すれば、本当に自業自得のことだと分かり、人生の主導権を握り、輪廻を断ち切ることができます。
 そもそも、輪廻は逼迫してどうしようもない状態です。このような人は、かつて「無明の召使い」と呼ばれ、つまり無明の業に支配されて、不本意ながら、あれこれをやらなければなりません。なぜかというと、すべて社会、環境、他人、または両親・親類・友達に押し付けられた物事で、自分の仕業ではなく、自分と関係ないと思うからです。
 実は、ここで学んでいるのは学術的な問題ではなく、我々の生活に不可欠な認識なのです。不可欠な認識だと思えば、この授業ないし皆さんとの付き合いは価値があります。さもなければ、何の意味もありません。
 みんな自業自得ではない果報を探してみましょう。もし1つも見つけられなければ、果報というものは例外なく全部自業自得のことです。

(注1)人間の心が自分の有り様を作り出すこと。
(注2)因縁果報とは、因は自分自身、縁は周りの素晴らしい人々(良縁)、果は幸せな人生が約束される、報は幸せな人生という意味が込められている。
(注3)仏教用語。唯識説によると,人間の心の根底をなす普遍的な本識である阿頼耶識には,この世の一切のものを生じる原因としての種子 (しゅうじ) が蔵されているが,この種子より生じた事象を現行といい,その現象を種子生現行という。生じた現行が必ず新しい種子を阿頼耶識のうえに付加することを現行熏種子という。
(注4)幸福なむくい。

「南無阿弥陀仏」慈法法師の題字極楽世界はユートピアですか縁 起:2009年の夏、アメリカに留学している若い女性は、慈法法師に、極楽浄土について質問しました。女性の問:和尚様、極楽浄土のことについて教えてもらえませんか。私は全くの素人です。慈...
27/11/2020

「南無阿弥陀仏」慈法法師の題字

極楽世界はユートピアですか

縁 起:2009年の夏、アメリカに留学している若い女性は、慈法法師に、極楽浄土について質問しました。

女性の問:和尚様、極楽浄土のことについて教えてもらえませんか。私は全くの素人です。
慈法法師:実は、極楽浄土は、我々の心に映される一番素晴らしい風景です。人類、動物のみならず、あらゆる種類の生き物にとって、感情や意識など心の動きを有するもの、つまり有情にとって、極楽浄土は、心の中の最も美しい、素晴らしい完璧な世界なのです。
女性の問:それは実際に存在する世界なのですか。
慈法法師:はい、間違いなく実在します。我々の現実世界は因果応報によって成り立っています。仏教では、形相(ぎょうそう)を持つ物事は、すべて染浄(ぜんじょう)二法(にほう)(注1)の因縁に依拠して現れており、極楽浄土は清浄な因縁、この世は、染着の因縁より展開されていると認識されています。染着の因縁は、乱雑で無秩序の状態に繋がり、現在人類の行いは乱雑で無秩序の果報を生み出しています。例えば、中国とアメリカはお互いに異なるでしょう。この世は、こうした乱雑な状態です。対照的に、極楽浄土は徹底的、完璧に法性(ほっしょう)に從って展開された世界です。「仏説無量寿経」を読んでみてください。極楽浄土に暮らしている人々は、どんな生活状態なのかなど、かの国の様子を非常に詳しく紹介した経典です。アメリカに行ったら、まず現地の状況を紹介してくれることと同じです。
女性の問:あれは想像の世界ですか?
慈法法師:想像とは全然関係ありません。例えば、昔人間が月に到着したことがない時代は、月は神話の世界だと思われていましたが、現在ではスペースシャトルに搭乗したら月に到着でき、月はもう神話の世界ではないでしょう。同様に、極楽浄土を直接に体験したことがないから、勝手にそれは神話だとか想像だというのは、まったくの間違いです。この世と、かの国(極楽浄土)はともに実在しており、この世が存在する限り、かの国は必ず実際に存在しているのです。なぜかというと、かの国はユートピアではなく、この世と同じように業報(ごうほう)(注2)によって生まれた事実の存在です。中国もアメリカも実在の所であることと同じです。  
女性の問:和尚様、いかにしたらたどり着けますか。
慈法法師:需要があれば行くことができ、特別な技法は要りません。需要のある者、意欲のある人は行けます。例えば、フランスに行きたい意欲があるなら行けるでしょう。「フランス、パリは一体何物なのか、証明してくれ」と言ったら、「行けばわかる」という返事を得るでしょう。もし「行かない。どうか証明してくれ」と言うならおかしいでしょう。パリに行けば、あそこの様子がすぐ分かります。パスポートを申請して、当地に行けば分かります。ごく簡単なことです。いかに証明するかと言えば、この世が存在する以上、かの国は絶対に存在しているというしかありません。
女性の問:最終的に……
慈法法師:それは、あなたの現段階の見識によって生まれた考え方です。例えば、美感を追求する人にとって、美しさは、自分を極楽浄土に導く便利な手段として使えますが、一切衆生の願望を代表できず、大勢の人の願望は異なるものです。一部の人は殺人、放火、麻薬などの悪事をたくさん行ったため悪道を怖がり、死後の行方に不安を抱いており、輪廻の苦から解脱する方法を提供する極楽浄土の存在を望んでいます。これらの人にとって、美感などはどうでもいいことで、悪縁を避けることが願望なのです。一部の人にとって、往生の意欲を生み出したのは、この世の修行でなかなか身に付けられない、極楽浄土の有情が持つ目、耳、体、心の不思議な神通力(じんつうりき)を望んでいることです。また、一部の人は黄金の地、自由自在な飛行能力を好んで、極楽浄土へ飛んで異なる体験を得ようとしています。
女性の問:プラトンのユートピアとはどこが違うのですか。
慈法法師:違います。極楽浄土はユートピアと異なることです。ユートピアは、ある人が想像したことですが、アメリカが二百年前に建立されたことと同じように、極楽浄土は十刧(こう)前(注3)に設立されたのです。もしその存在を確かめたいなら、ぜひ自分で確かめてみてください。これは一番簡単な方法です。
女性の問:私から見れば、アメリカは極楽浄土ではありません。
慈法法師:もちろんです。
女性の問:人間はみんな理想的な世界を創りたいですが……
慈法法師:以下のように説明しましょう。人間は心理的な欠陥を抱えるなら、いつも外界の完璧な環境を望むようになりますが、実はいったん完璧な心理状態を備えれば、完璧な自然環境を整える力を身に付けます。逆に心の欠陥があれば、周りの環境を完璧にするのは難しいのです。浄土教の経典によると、我々のいるこの世は濁悪(じょくあく)な世界で、乱雑な意識、乱雑な業、乱雑な状態の生命に成されているため、この世で完璧な環境を見つけるのは非常に難しいです。対照的に、極楽浄土は阿弥陀仏の完璧な心智(しんち)(注4)によって成り立つ完璧な世界で、かの国に往生する人が正覚(しょうがく)を象徴する華に化生(けしょう)するのは阿弥陀仏の力で成り立つ事実です。極楽浄土は我々の業力から生まれる乱雑な因縁ではなく、このような完璧な法則、完璧な環境を具える世界です。
  仏教は何かの物事を検証するための教えではありません。我々の(往生)意欲が非常に大切です。極楽浄土は理想的な天国だと思う人は多いが、本当にそうであれば、浄土教は価値がないし、詐欺になり、虚しい仮説になります。
女性の問:釈迦牟尼仏は、なぜ極楽浄土の存在を証明してくれたのですか。
慈法法師:仏様は長年説法していたが、最初は浄土教を開示しませんでした。なぜかというと、いったん浄土教を開示したら、きっと証明してくれと言われるためです。仏様は後期から浄土教を開示し始めるのはなぜかと言えば、世尊の話しはすべて誠実、如実な言葉で、嘘を言わないと皆さんに認められるようになったためです。その時から他方の仏国、他方の世界を紹介し始めたのです。
女性の問:仏様の目に極楽浄土が見えるということですか。
慈法法師:釈迦牟尼仏だけでなく、仏様の回りの聖者、智者たちの目にも、大勢の伝教者たちの目にも極楽浄土が見えるのです。生きながら極楽浄土が見えた人は少なくありません。しかし、証明してくれというのは無意義です。例えば、パリの写真を見せてくれる場合、「信じない。偽造した写真だ。偽物だ」と返事してあげれば、仕方がないでしょう。一番簡単にフランスを確認する方法は自分でフランスへ行くことです。極楽浄土を確認したいなら、自分で行けばいいのです。しかも、極楽浄土は誰にもマイナスの影響を与えないです。
  これはいわゆる意欲のことで、往生の願望を抱くことです。我々はこの世に対して苦しみ・迷い・葛藤(かっとう)を感じる時、極楽浄土は心の拠り所を提供してくれます。この心の拠り所で死の問題を解決できます。人間は誰でもいつか死を迎え、そして死んだ後は、いずれどこかへ帰ることになります。ほかの宗教は天国などのコンセプトがありますが、仏教は極楽浄土へ導く道なのです。
女性の問:天国と同じですか。
慈法法師:もちろん違います。仏様は三界がすべて六道輪廻の世界だと教えてくれました。たとえ天上に行っても、業力の制限を受けて輪廻から解脱できません。しかし、法性の力を借りるなら、または阿弥陀仏が法性に從って設立した極楽浄土に往生するなら、輪廻の道から解脱できます。これは因縁によって生じた世界です。
  鋼鉄で作った家は鉄製ハウス、石で作った家は石のハウス、木で作った家は木製のハウスです。様々な家を建設する時、人間がその家に入る時、何かの縁起と結果が生じます。極楽浄土もこのように構築されたのです。木製のハウスに住む人は不満を抱き、鉄製のハウスに住みたくなり、鉄製のハウスを作ったことと同じです。アメリカ人はアメリカのライフスタイル、中国人は中国のライフスタイルを持っており、生活・文化についての考え方の差異が異なる果報、異なる生活環境を生み出します。我々の居る世間の状態も果報の現れです。

(注1)「染浄(ぜんじょう)二法(にほう)」とは、「染法(ぜんぽう」と「浄法(じょうほう)」をいいます。染法とは、迷いの生命である無明(むみょう)のことで、十界に約せば九界を指します。浄法とは、悟りの生命である法性(ほっしょう)のことで、十界に約せば仏界を指します 「大白法・平成19年9月16日刊(第725号より)」。
(注2)前世や過去におこなった善悪の行為による報い。業果。デジタル大辞泉より
(注3)劫(こう)は仏教などインド哲学の用語で、極めて長い宇宙論的な時間の単位。サンスクリット語のカルパの音写文字「劫波(劫簸)」を省略したものである。フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より
(注4)物事をよく判断する心の働き。知恵。精選版 日本国語大辞典より

中国陝西省西安市碑林博物館 不動明王像(唐代)1958年西安市安国寺旧址出土病気は潜在意識から生まれるもの病気、環境汚染、家庭崩壊などの出来事は、我々が望むことではないと思うでしょう。しかし、これ らの出来事は、我々の日々の言動および意識の...
08/11/2020

中国陝西省西安市碑林博物館 不動明王像(唐代)
1958年西安市安国寺旧址出土

病気は潜在意識から生まれるもの

病気、環境汚染、家庭崩壊などの出来事は、我々が望むことではないと思うでしょう。しかし、これ らの出来事は、我々の日々の言動および意識の蓄積によって生まれるものです。 人間の潜在意識には、悪い心理状態に対する親しみが深く潜んでいます。例えば、怒り・恨みの一念 はいつも、「もう生きたくない」という思い、自分の体に飽きて、捨てようとする思いをもたらしてい ますが、我々は常にこういう思いを見落とし、自分の心に悪い種子(たね)を撒いています。 因縁つまり、ある結果を生むような直接の原因と。結果を生むための補助的条件が熟すと、重い病気 または不治の病気が現れます。我々はこれらの悪い出来事を実体あるものだと思い込み、心の中の種子 (たね)が成長して、生み出したものだと認識していません。 人間の言動と世の中の現象は、すべて鏡のように人間の心の中の種子(たね)を映(うつ)していま す。一切の物事はそれを認識する心と意識の現れです(注)。
(注)中国語の原文は「唯心所照、唯識所現」で、仏教の唯識(ゆいしき)思想の内容です。

不為自身求安楽但得衆生得離苦(「自身の安楽を求むることを為さず、ただ衆生が苦を離るることを得(う)る」       ――慈法法師題字一切衆生の心に共鳴する祝福の方法弟  子:師父様は昔、朝夕勤行(ごんぎょう)(注1)の時の念誦(ねんじゅ)の...
10/10/2020

不為自身求安楽
但得衆生得離苦
(「自身の安楽を求むることを為さず、ただ衆生が苦を離るることを得(う)る」
       ――慈法法師題字

一切衆生の心に共鳴する祝福の方法

弟  子:師父様は昔、朝夕勤行(ごんぎょう)(注1)の時の念誦(ねんじゅ)の声は、一切衆生の心に充満し、一切衆生を解脱させることができると教えられたことがあります。また、今回の疫病について、すべての衆生の心念を自分の念誦に収め入れ、または自分の念誦を衆生の心に充満させるという方法を教えてもらいました。この祝福の方法を詳しく説明していただけないでしょうか。
慈法法師:私たちは、阿弥陀仏に対する信仰を持っており、無辺光(むへんこう)、無碍光(むげこう)、無対光(むたいこう)(注2)などの光明の徳を勉強することを通して、阿弥陀仏の願力(がんりき)(注3)の内容および性徳(しょうとく)(注4)の働きに触れることができます。
諸仏如来は、世間を円満・清浄・無碍(むげ)にする行い、円満な正報(しょうほう)・依報(えほう)(注5)をもたらす行いを取っており、我々にとっても良い参考になります。
 我々は、仏の円満な行いを参考にして、以下のように念誦を行うと良いでしょう。
今の時代、すなわち我々が生きる時代のすべての生命――この地球に約70億の人間が生存しており、様々な民族・教育レベルで、様々な地域にいるが、同じ地球村で暮らしています――のために、衆生の性徳に基づいて、無差別な心を持って念誦すべきです。つまり、念誦・修行・正見(しょうけん)(注6)の功徳を一切衆生の心に注ぎ込むために念誦すべきなのです。その結果、念誦の言葉、念誦がもたらす効果および自分の考え方・観察方法が平等になり、すべての人間の心と共鳴し合うことができるのです。
 パニックに陥る人、迷う人、邪見を持つ人、勝手に他人を傷つける人、責任転嫁する人、ほかの国・民族に危害を加えたい人など、人間はなぜ様々なのかといえば、他人の業(ごう)(注7)の情報を受け入れ、他人の業を気にして、他人の業に共鳴しているためです。
  ところで、我々は、阿弥陀仏のように、性徳に基づく大願を立てることができます。「もし私の国に生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開かない」(注8)、または「私は正覚を成就すれば、無量寿という仏名をつける。衆生はこの名を聞けば、ともに私の国に来ることができる」(注9)という阿弥陀仏の大願の力に支えられ、性徳に対する正しい認識に基づいて、阿弥陀仏の導き、迎えを受け入れたいという意識および性徳に対する正しい認識を一切衆生の心に届けたいとの大願を立てられます。
我々の一つ一つの念頭、一つ一つの行いはすべて、仏の功徳、性徳の功徳と自分の悟った瞬間の功徳を一切衆生に平等に回向(えこう)する(注10)ために働くことになります。
  我々は、このような願望を立てれば、清浄心および性徳に基づく行いを実践することになります。これは真誠(しんせい)、清浄、円満、無碍な心で70億人の人類と共鳴し合える実践方法で、この実践方法は必ず持続可能な恩恵をもたらしてくれます。 
  修行にとっては、このような実践方法が必要です。例えば、僧侶は朝五、六時に起きて、夜が明けないうちに仏殿に行って朝勤行を行わなければなりません。一切衆生のため、または正法をこの世に存続させるためでなければ、ほかの人はまだ寝ているのに、どうして私は、こんなに早く起きなければならないのかと悩んでしまうでしょう。
 しかし、一切衆生の安楽のため、死にかける人を回復させるため、恐怖に陥る人が安らぐため、迷う人が方向を定めるため、落ちぶれた人を救済するためなど、これらの善意を持って仏殿に行って朝勤行を行うなら、自分一人のみでも、70億人の生命ないし無量の生命のために祝福・念誦でき、サポートを提供できるようになるでしょう。
 我々は一切の衆生、または70億人の人類、特に今回の疫病の影響を受ける人間のために念誦、みんなが安楽・健康で、適切な治療・生活保障・仕事を得られるよう祝福、衆生の幸福と利益のための心のサポートを提供するように発心すべきです。そうすれば、この朝勤行の念誦は非常に気持ちが良く、積極的で光栄なこととなります。
  肝心なのは明確な発心を持ち、明確な行為を取り、明確な結果を生み出すことです。発心の確認は何よりも大切なのです。
――2020年4月の講義「阿弥陀仏信仰の核心」より

(注1)勤行(ごんぎょう)とは毎日、朝と夕方に行なう読経や念仏などの修行活動を指す。
(注2)「仏説無量寿経」では、釈迦牟尼仏は阿弥陀仏の光明(仏の智慧の徳を示す)の徳を十二種に分けて称讃し、阿弥陀仏は十二光仏とも呼ばれている。
無量光(むりょうこう)。量はかることのできない光。
無辺光(むへんこう)。際限のない光。
無碍光(むげこう)。なにものにもさえぎられることのない光。
無対光(むたいこう)。くらべるもののない光。
炎王光(えんのうこう)。最高の輝きをもつ光。
清浄光(しょうじょうこう)。衆生のむさぼりを除くきよらかな光。
歓喜光(かんぎこう)。衆生のいかりを除きよろこびを与える光。
智慧光(ちえこう)。衆生のまどいを除き智慧を与える光。
不断光(ふだんこう)。常に照らす光。
難思光(なんじこう)。おもいはかることができない光。
無称光(むしょうこう)。説きつくすことができず、言葉もおよばない光。
超日月光(ちょうにちがっこう)。日月に超えすぐれた光。
(注3)願力とは衆生 (しゅじょう) を救おうとする仏・菩薩 (ぼさつ) の誓願の力で、ここは阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願の力を指す。
(注4)一切衆生が仏になれる本性を備えている。性徳(しょうとく)とは一切の衆生が本性として備えている、仏になれる先天的能力のことを指す。修行によって得る後天的な能力を修徳(しゅとく)という。
(注5)自分自身の過去の業の報いとして、まさしく得られた有情の身心を正報(しょうぼう)といい、有情の生存のよりどころとなる山川草木などの外的な環境を依報(えほう)という。
(注6)釈尊が悟りにいたるための正しい実践行として説いた八正道の第一。釈尊の教法に関して誤りのない正しい見解、思想。残りの七正道もすべてこの正見を目指す。
(注7)身・口(く)・意が行う善悪の行為。特に悪業。また、昔の行為が生み出す報い。
(注8)「仏説無量寿経・巻上」より
(注9)「仏説大乗無量寿荘厳経・巻中」より
(注10)回向(えこう)とは自分の修めた功徳 (くどく) を他にも差し向け、自他ともに悟りを得るための助けとすること。

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