31/03/2024
山門伝道掲示板 四月一日
「諦観法王法」
春の訪れ。本来の自己を見極めよ
従容録(しょうようろく)の第一則にある曹洞宗では有名な禅語であります。中国の北宋の禅僧、宏智正覚(わんししょうがく)禅師(1091~1157年)が百則の禅問答を撰び頌を附けられたものです。その後に萬松行修禅師が、有名な雪竇重顕(せっちょうじゅうけん)禅師(980~1052)が百則の禅問答を撰び頌を附けられ、後世に圜悟克勤(えんごこくごん)禅師(1065~1135)が垂示、著語、評唱を附けて提唱された碧巌録に倣って、示衆、著語、評唱を附けて門人の為に提唱されたものです。
その第一則に「世尊陞座(せそんしんぞ)」があります。
「挙す世尊一日陞座、文殊白槌して云く、諦観法王法(たいかんほうおうほう)、法王法如是(ほうほうほうにょぜ)。世尊便ち下座。」
場所は霊鷲山であろうと言われています。お釈迦様の御説法があるというので、大勢の弟子達が今か今かとお待ちしていました。するとそこにお釈迦様が現れて、高座に上りお座りになりました。そこで微笑まれたのか、禅定に入られたのかはわかりません。とにかく一言もおっしゃられない。何を語られるか待ちわびていた周囲の弟子達を前に、文殊菩薩が進み出て、カチーンと槌を打って弟子達に告げました。
「諦観法王法、法王法如是」
それを聞いたお釈迦様はそのまま高座を降りてしまわれた。という話です。
【諦観法王法】。「諦観」とは物事の本質を見極めること。「法王法」とは、仏法の最高の教え、究極の教えのことです。ですから、今ここに置いてお釈迦様の大説法が無言のうちに繰り広げられた、それをはっきりと見極めよ。との文殊菩薩が示しています。
なおその後に続く【法王法如是】については次回説明させていただくことにします。
今お釈迦様が高座にのぼられたばかりで、まだ一言半句も説いていないのに、本来、法話が終わってから唱えるべきこの語を発せられたのにはどんな意図があったのでしょうか。そこで、この本則に対して示衆といって、萬松禅師がこの問答の大意を聴衆に示した文章を見ていきましょう。
「衆に示して云く、門を閉じて打睡して上上の機を接し、顧鑑頻申(こかんひんしん)曲げて中下の為にす、那(な)んぞ曲碌木上(きょくろくもくじょう)に鬼眼晴(きがんぜい)を弄(ろう)するに堪(た)えん、箇の傍(かたわ)らに肯(うけが)わざる底あらば出で来たれ、也(ま)た伊(か)れを怪しむことを得ず。」
意訳:怜悧な優れた修行者には説くまでもないので門を閉じて昼寝していよう。他の修行者には本意ではないが、引き締めたり、緩めたりといろいろな方便を用いて、なんとか導いていこう。かといって、偉いお坊さんが曲碌という椅子に腰掛けて一喝・一棒を加えたりするような(そんな演技のような)真似はできない。もし、それでも納得できない者は出で来たれ。もちろん、その人を怪しむようなことはしないから。
毎朝坐禅・朝課、六時の梵鐘の後に寺から山側にのぼって三十分から約一時間散歩をすることが習慣になっています。夜が白々と明けていく時に、東の空は色が何層にも重なり、時々刻々と濃さを増していきます。そして、ある瞬間を境に一気に光が今度は薄く変化していきます。その時々刻々とめまぐるしい変化には、説明は全く必要ありません。言葉では言い尽くせない世界が展開しています。そして、そのような大自然、大宇宙の運行に接することで一日の生きる力が不思議と自分の中から湧いてきます。その時、理屈を超えた言葉では説明がつかないものが己の中にあることに気づくのです。
お釈迦様の大説法も同じです。大自然、大宇宙の丸出しです。ただ、その丸出しに気がつけるかどうか。もし気がついたら、お釈迦様の無言の大説法に感極まることでしょう。なぜなら大自然、大宇宙の姿は本来の自己そのものだからです。丸出しである本来の自己に出会えた、気付いたその瞬間は、歓喜や感激が沸々と湧き出して来るのです。
さて、曹洞宗ではよく新しい住職が晋山式において本堂の須弥壇上に建って説法、問答をします。これを上堂と言います。その際に、白槌師と呼ばれるお役の和尚がそのはじめに「法筵龍象衆 当観第一義」(今から座上の和尚が法を説かれるから、今ここに集まっている龍象の如き大衆よ、各自、本当の仏法、本当の自分を観よ、究めよ)と注意を与えます。その後、法演があり、終わって、また白槌師が歩み出て槌を打ち鳴らし「諦観法王法、法王法如是」と唱えることになっています。
次回は「法王法如是」を取り上げたいと思います。