05/06/2021
【視点・死角】
「病気」とどう向き合うか
今回は「病の神学(ジョン=クロード・ラルシェ著/教友社)」を通して、二、三考えて見たい。
まず訳者あとがきにより、内容を紹介しよう。
第一章「病気の淵源」。病気や痛みは、神がおつくりになったのではない。人間が自由意志の乱用によって「楽園からの追放」、すなわち神から離れ、病気を招き入れたのである。そしてこれは、人類全体の宿命となる。こうして罹病は人間が負わなければならない災いだが、キリストの十字架と復活によって再生され、病気から解放される。しかし最終的には、神の定めた「終わりの時」である。
第二章「病気の霊的意味」。
病気が持つ深い意味についての考察である。病気であっても、そこから大きな霊的かじつを得ることができる。そのためには病気が神から離れた出来事、すなわち人間の思い上がりを思い起こす必要がある。病気によって人間は正気にかえるのであり、神は病気において人間を救う意志を示している。
こういう言い方は、第一章の「神は人間に苦痛を与えようとはなさらない」ことと矛盾し、病気や障がいのあるものには、かなりの抵抗があろう。だから、多くの人は口にするのをはばかっている。しかし聖書は、人間すべてが取り組むべき課題として、問題を赤裸々に示している。人々は心に思っていても口に出せない。卑怯にもその勇気がない。どちらが正直か。神は現実をあいまいにするのではなく、現実をあらわにして、人間を救おうとされるからである。神は人間を愛しておられるから。それは口先だけの愛ではない。御子イエス・キリストを人間の罪の身代わりにつけた十字架を見よ!
第三章「キリスト教的な治癒」
まずキリスト教世界は、世俗的な医術を取り入れながら広まった(こういう表現は訂正が必要であろう。もちろん医術は世俗的な領域から始まったのだが、その精神はホスピス(修道院などの宿泊所)にあるー内藤註)。だがその根底には「神こそただ一人の医者である」事を確認して置かねばならない。キリスト者にとって治癒は(医者を通してと言ってもいいかも知れない)、神がもたらすのである(この感染世界にあって、医療従事者、患者のために祈らなくてはならない。これは全キリスト者の責任である)。
以上が内容の要約だが、最後に著者ラルシェのメッセージに耳を傾けよう。
序文
生きていて病気を患わない人間はいない。病気は、人間であることの条件と不可避的に関連づけられている。完全に健康な器官はない。健康とは、わずかながら優位を保つ人間の生命力と、これに抗するほかの力との一時的な均衡に過ぎない。
マルセル・サンドライユ教授はその「病気の文化史」の中で次のように記している。生命は「その本質からして死に対する挑戦である。われわれの各細胞は、それを破壊しようとする力との絶えざる闘いによってのみ持ちこたえている。すでに若い頃から、われわれの身体組織には崩壊したり、摩耗したりした部位がひろく存在する。それらの組織の死期を早めることになる要因がすでに誕生の段階から刻み込まれている。病気は、持続する肉体のその筋書きの一部となっている。健康という装いのもとですら、生物学的な諸現象は、正常の範囲をたえず超えている。病因の発現が生命の最も基本的な営みと組み合わさっていることは、医師が日常的に観察している事柄である」と。
自分が健康であると思うまさにその時に病気はすでにわれわれに滞在するのであり、ある抵抗力が弱まるだけで、それはなんらかのかたちをとって発症する。われわれがそれと気づく前に、病気はときに重大な事態を引き起こしていることもあるのである。
この認識と謙遜こそが、予想外の試練にてんてこまいの私たちには必要な特効薬であろう。。
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