05/09/2026
典礼 2026年9月06第23主日
サイクル A 偶数年 緑
足利カトリック教会.サンペドロ サンパブロ
福音朗読
マタイ18・15-20
アレルヤ、アレルヤ。神はキリストのうちに世をご自分に和解させ、和解のことばをわたしたちにゆだねられた。アレルヤ、アレルヤ。
マタイによる福音
そのとき、イエスは弟子たちに言われた。18・15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
主のみことば
説教要旨
少し前の日曜日の福音で、主イエスが弟子を代表するペトロの上に教会を建てると約束された個所が読まれました。今日読まれたマタイ18章では、その教会、あるいは、キリストを信じる人々が作ろうとする共同体についてのイエスの教えが取り上げられている。
主イエスの招きに応えて集まった人々の共同体は、もとより完全ではないし、弱さや罪深さをもった人々の集団です。たとえ善意からであっても、人を傷つけたり、つまずかせたりすることもあります。イエスは、そうした兄弟を繰り返し赦すことを教えられましたが、同時に、兄弟があやまちを認め、立ち直ること、兄弟を諫めることを勧められました。罪を犯した人間を断罪するのではなく、その前に、救いの手を差し伸べるように勧められたのです。
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」と。これは勇気のいることです。相手がどう思うか、どんな反応を示すか、つい、遠慮してしまいがちです。しかし、相手に対して、尊敬の心が少しでもあるなら、そうした行動をとることができるでしょう。そして、それを聞きいれなければ、二人か三人のところに連れて行きなさい、とあります。あくまで、その人の回心を願い、和解の恵みを願うのです。「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい」と主は言われます。主は、兄弟に対して無関心ではなく、また、一方的に決めつけるのでもなく、兄弟の言動に対し、その救いに対して、責任をもって行動することを求められるのです。
第一朗読のエゼキエル預言者が語っていることもそれに通じます。主は預言者に言われます、「あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前に求める。しかし、もしあなたが悪人に対してその道から立ち帰るよう警告したのに、彼がその道から立ち帰らなかったのなら、彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う」と。
とかく、規則一辺倒で、法律違反の行為にのみ関心を向け、相手の人格に対する尊敬を持とうとしない傾向、これはわたしたちと決して無縁ではありません。第二朗読のパウロの手紙で、隣人愛、互いに愛し合うことが強調されているのも、こうした人間に共通した傾向をいさめるものと言ってよいでしょう。
福音の言葉は続きます。一つは、教会に与えられた大きな権能のことです。「あなたがたが地上でつなぐことは天上でも繋がれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。先日の福音でペトロに対して言われた言葉です。教会に、また、使徒の後継者たちに与えられる大きな権能です。人間に対する神様の限りない信頼の言葉と言ってよいでしょう。しかし、教会の歴史を振り返ると、教会の指導者たちが犯した大きな過ちのことも忘れることはできません。
そうしたあやまちを免れるためにも、その次に記された言葉を心に刻まなければなりません。「あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
教会は、主がそこにおられる、祝福されたところです。決して、人間的な思いだけで、人々が群れを作った集団ではありません。そこに主がおられるからこそ、存在する意味があり、価値があるのです。その中心になるのが祈りです。祈らなくなった教会は、もはや教会ではありません。フランシスコ教皇が口を酸っぱくして強調されることです。どうか、主が、わたしたちの共同体、細江教会、広島教区、そして日本の教会が、主がそこにおられることを信じ祈る共同体として成長してゆくことができるよう祈りましょう。(S.T.)