宗教法人 旭川バプテスト教会

宗教法人 旭川バプテスト教会 「宗教法人 旭川バプテスト教会」は、日本バプテスト連盟に加盟している最北端の教会です。

[集会案内]

聖書の学び 日曜 9:45~10:15(A幼児小学、B少年少女、C成人)
主日礼拝  日曜 10:30~11:30
祈祷会    水曜 10:30~(現在、休止中)

[沿革]
1954年7月 W・Hジャクソン宣教師により開拓伝道開始(~1956年3月)
1955年10月 「献堂式」ならびに「教会組織」
1956年7月 「日本バプテスト連盟」に加盟
1958年4月 連盟直属開拓伝道を開始した「釧路伝道所(現「日本バプテスト連盟 釧路キリスト教会」)」の母教会となる
1958年8月 「宗教法人」認可
1961年7月 教会付属「新町幼稚園」認可(~1983年3月)
1963年4月 1959年に連盟が開拓伝道を決議した「帯広伝道所(現「帯広バプテスト・キリスト教会」)」の母教会となる
1983年2月 1981年1月に北海道連合の総会にて「開拓伝道」が決議された「東光伝道所(現「日本バプテスト連盟 旭川東光キリスト教会」)」の母教会となる

[歴代牧師]
柴田文雄 (1955年~1959年)
岩永光ニ (1960年~1970年)
村松庸夫 (1973年~1993年)
宮内康弘 (1993年~2008年)
田森茂基 (2010年~現在)

05/09/2026

「共生の価値」田森茂基牧師

旧約聖書 『サムエル記 下』 12章1~14節/新共同訳
【主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」】

 『サムエル記 下』は、イスラエル統一王国の二代目国王となったダビデの物語が記されています。皆さんは、このダビデという人物について、どのような印象を持っておられるでしょうか。
 ダビデはイスラエル統一王国の2代目の国王となりました。ですが、初代の国王は、ダビデの父ではありません。ダビデは、初代国王となったサウルの娘ミカルと結婚しましたので、関係的には親子と言えるかもしれませんが、それが理由でダビデが王になった訳ではありません。まだサウルが王であった時代に、神はダビデを選び、王とすることを計画されたのです。
 ダビデの父親はエッサイという人物です。彼には8人の息子と共にベツレヘムで暮らしており、ダビデはその末子でした。ちなみにエッサイの父オベドは、『ルツ記』に登場するボアズとルツ夫妻の子ですので、エッサイもその財産を受け継ぎ、農園を営んでいたと推測されます。そこを訪れた預言者サムエルによって、ダビデは次の王に選ばれた時、彼は羊の世話をしていましたので、当然ながら王となる教育は受けていませんでした。そんなダビデがサウルに伝えるようになったのは、竪琴の技量を見込まれたからでした。そして、イスラエルとペリシテとの戦いの中で、ペリシテの戦士ゴリアトを殺害したことで、その名が知られる事となります。彼の働きによって利益を得た者や、その子孫たちがダビデを英雄視することに驚きはしませんが、聖書に記されたダビデの姿を客観的に見る時に私が感じるダビデの特徴は、感情の不安定さと幼さでした。本日の箇所からも、そのようなダビデの様子が伺えます。
 ダビデを王に選んだ預言者サムエルの死後、神はナタンを預言者として立て、ダビデが行った不正を告発させました。この時すでに国王として絶大な権力を手にし、自らの欲望を叶えるためには、部下の命さえ軽んじるダビデに対し、その不正を指摘する事は容易なことではなかったでしょう。恐らくナタンは、自らの命が奪われることも覚悟しながら、それでも神の御心に従う事を選んだのだろうと、私は受け取るのです。最後の14節の後を見ると、15節の冒頭に【ナタンは自分の家に帰って行った。(新共同訳)】とだけ書かれています。その点からも、ナタンは一刻も早く、ダビデの下を立ち去りたかったのだと感じられます。それに対し、ダビデも反論や言い訳をすることなく、【わたしは主に罪を犯した(新共同訳)】と語るだけでした。ナタンの話術が優れていただけでなく、死を覚悟したナタンの言葉に、ダビデも自らが王であり、絶大な権力を持っていることを忘れさせたのだろうと、私は想像するのです。そのような二人の関係から、皆さんは何を受け取られたでしょうか。

 私がここから受け取ったのは、本日のメッセージのタイトルにしました「共生の価値」でした。ダビデに限らず、“ヒト”は自らの過ちに気が付かないことが多々あります。そのような“ヒト”だからこそ、創造主なる神は、“ヒト”が互いに共生する事を求めたのではないでしょうか。私たちも自らの良し悪しに気付かせてくれる隣人と、共に生きて行きたいと願うのです。                        (2026年9月6日 主日礼拝メッセージより)

05/09/2026

9月6日の主日礼拝(10:30~12:00)も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 なお、教会での礼拝では、9月の「受浸者祝福式」と「主の晩餐式」を行います。
 
≪9月6日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 26章12~15節(新共同訳)
賛美    新生4 ”来りて歌え”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    サムエル記下 12章1~14節(新共同訳)
メッセージ 「共生の価値」※
賛美    新生370 ”主イエスにこたえて”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、6日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(9/13)の礼拝メッセージ「救いの兜をかぶる」
※ 次主日(8/9)聖書箇所:『エフェソの信徒への手紙』6章10~18節

29/08/2026

「多いほど良いのか」田森茂基牧師

新約聖書『マルコによる福音書』12章41~44節/新共同訳
【イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」】

 上記の箇所から少し遡って11章15節以下を見ると、主イエスがエルサレムに到着した翌日に、神殿の境内で商売している商人たちを追い出したことが記されています。また、同じ11章の20節以下には、その翌日も朝早くからエルサレムに向かわれて、ユダヤ教指導者たちと【権威】について議論されたこと等が記されています。本日の箇所も、そのような、主イエスがエルサレムで過ごされた日々の中で起きた出来事の一つであります。
 この時代のエルサレム神殿には、「異邦人の庭」、「婦人の庭」、「イスラエルの庭」、「祭司の庭」という4つの庭がありました。これらの庭の名は、そこに入れる者を示していました。神殿の入り口から最も近い位置にある「異邦人の庭」は、異邦人を含むすべての人が入ることが出来、次の「婦人の庭」には、イスラエルの民であればだれでも入れます。そして、その次の「イスラエルの庭」に入れるのは、イスラエルの民の成人男性だけであり、その中で祭司だけが、最後の「祭司の庭」に入ることが出来ました。ちなみに、先ほど紹介した、主イエスが境内から商人を追い出したのは、「異邦人の庭」で起きた出来事であり、本日の箇所に記された出来事は、「婦人の庭」で起きました。
 この「婦人の庭」の特徴は、「献金箱」が壁に設置されている事でした。その箱には、ラッパのような形をした投入口が13個あり、人々はそこに硬貨を投げ入れていたようですので、日本の神社にある“賽銭箱”とイメージが重なります。おそらく、献金をする人は、13個ある投入口の前に並び、自分の順番が来ると、用意していた硬貨を投げ入れていたのでしょう。なお、新共同訳聖書では、【金】と翻訳されていますが、原典である「ギリシャ語聖書」を見ると「銅」を意味する[χαλκοs(カルコス)]が使われていますので、おそらく人々が投げ入れていたのは「銅貨」であったと考えられます。「銅貨」とは、当時の社会においてもっとも価値の低い硬貨ですので、金持ちは献金をわざわざ「銅貨」に換金し、長い時間をかけて周囲の注目を集めながら、大量の「銅貨」を投げ入れていた様子が想像されます。しかし、そのような人々の思惑とは異なり、主イエスが注目したのは真逆とも言える【貧しいやもめ(新共同訳)】でした。
 42節にあるように、この【貧しいやもめ(新共同訳)】と紹介されている女性は、銅貨2枚を献げました。時間にするとわずか数秒のことでしょうが、主イエスはそれを見逃さず、弟子たちに向かって【はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた(新共同訳)】と語られました。皆さんは、この主イエスの言葉を、どのように受け取られるでしょうか。
 この言葉に続けて主イエスは、【この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである(新共同訳)】と語ることで、女性が【だれよりもたくさん入れた】と語った理由を説明しています。この事から、献金で重要なのは“献金額”ではなく、“収入に対する献金額の割合”であると捉える方がおられるかもしれません。確かに、聖書の中では【十分の一】という割合が、献げものの場面で度々登場しています。キリスト教会においても、収入の十分の一を献金する事が奨励されてきました。それと比べると、あくまでも主イエスの言葉を根拠にですが、この女性は十倍にあたる「十分の十」を献げた事になり、【だれよりもたくさん入れた】と言える訳です。
 その事を踏まえつつ、今日はあえて考えてみたいことがあります。それは、主イエスのこの女性が「十分の十」を献げたことを褒める目的で【だれよりもたくさん入れた】と語られたのかという事です。仮に、褒める目的であったならば、確かに献金は割合が大事で、その割合が高いほど良いという事になるでしょう。しかし、この箇所には、この女性の行為に対する主イエスの評価は記されていません。ただ「だれよりもたくさん入れた」と語るだけで、それが良いとも良くないとも、弟子たちに教えていないのです。その点から、ここで主イエスが弟子たちに教えようとしたのは、「“多く献げる”とはどういうことか」ではなく、この女性が見せた献金の姿勢であると、私は受け取るのです。別の表現をするならば、この世的な価値観でもって“多く献げたことを誇る”愚かさを、主イエスは指摘されたのではないでしょうか。

 先ほども触れましたが、弟子たちへの教えの中で、主イエスは【生活費を全部入れた(新共同訳)】と語られましたが、それを見習うべき優れた行為であるとは語ってはいません。故に大切なことは「すべてをささげる」事ではなく、「神にささげる」事であると、私は受け取るのです。そして、その信仰を神は必ず見出して下さることを、主イエスは身をもって示されたのではないでしょうか。それ故に私たちも、信仰をもって神への感謝をささげて行きたいと願うのです。
(2026年8月30日 主日礼拝メッセージより)

29/08/2026

8月30日の主日礼拝(10:30~11:30)も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 また、礼拝前には「聖書の学び(9:45~10:15)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。

≪8月30日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 26章7~11節(新共同訳)
賛美    新生3 ”あがめまつれ うるわしき主”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    マルコによる福音書 12章41~44節(新共同訳)
メッセージ 「多いほど良いのか」※
賛美    新生633 ”すべてを捧げます”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、30日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(9/6)の礼拝メッセージ「共生の価値」
※ 次主日(9/6)聖書箇所:『サムエル記・下』12章1~14節

22/08/2026

「失われたもの」田森茂基牧師

新約聖書『ルカによる福音書』19章1~10節/新共同訳
【イエスはエリコに入り、町を通っておられた。そこにザアカイという人がいた。この人は徴税人の頭で、金持ちであった。イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群衆に遮られて見ることができなかった。それで、イエスを見るために、走って先回りし、いちじく桑の木に登った。そこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」 ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。これを見た人たちは皆つぶやいた。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった。」 しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」】

 『ルカによる福音書』は、主イエスが熱狂的にエルサレムへと迎え入れられる出来事の直前に、エリコの町で起こった「主イエスと徴税人ザアカイの出会い」を書き記しています。ガリラヤ地方のナザレで育ち、その周辺を活動拠点としていた主イエスですが、ユダヤ人の慣例として、毎年「過越祭」の時期はエルサレムで過ごされました。そして、その往復の際に経由する町の一つがエリコであったと考えられます。
 聖書の中で、ザアカイという徴税人が登場するは、先ほどお読みした箇所だけですので、主イエスが突然、いちじく桑の木に登っていたザアカイに対して【急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。(新共同訳)】と語られたことを、不思議に思われる方は少なくないでしょう。そして、この物語を見る限り、主イエスがザアカイと個人的な交わりを持ったのは、この時が初めてであったと考えられます。しかし、先ほど触れましたように、主イエスが毎年エリコの町に立ち寄っていたことや、主イエスがザアカイの家に宿をとったことに対する群衆の反応を見ると、主イエスもザアカイも、それぞれに互いのことについて噂を聞き、名前を知っていたのだろうと、私は推測します。そして、ザアカイにとっては、主イエスに呼びかけられたことは想像もしていなかった突然の出来事だったかもしれませんが、主イエスは当初から「今回は、エリコに行ったらザアカイに会う」と決めていたのではないかとの考えが浮かんできました。
 ユダヤ人社会において、徴税人は忌み嫌われる存在でした。何故なら、彼らはユダヤ人でありながらローマ帝国に納める税金を、ユダヤ人から取り立てる仕事をしていたからです。特にこのザアカイは、2節には【徴税人の頭で、金持ちであった(新共同訳)】とありますので、民衆からの評判は、相当に悪かったでしょう。これは、聖書に記されてはいない事ですが、彼が群衆に遮られて主イエスの姿を見ることが出来なかったのは、単に【背が低かった(新共同訳)】からという理由だけではないだろうと思い巡らせる方は、少なからずおられるのではないでしょうか。
 この出来事の後、エルサレムで主イエスは十字架で処刑されました。ですので、ザアカイの家での宿泊は、主イエスにとってのエリコで過ごす最後の一日であったと言えます。その点も、私が、エリコに着く以前から主イエスがザアカイに会う事を計画していたと考える理由の一つです。そして、もしそれが本当であったならば、主イエスにはザアカイに会う目的があったはずです。その事を思い巡らせる中で注目させられたのが、最後の10節にある【人の子は、失われたものを捜して救うために来た(新共同訳)】という主イエスの言葉でした。皆さんは、この主イエスの言葉を、どのように受け取られるでしょうか。
 ザアカイが【徴税人の頭】であった点や、その事によって、ユダヤ人から【罪深い男(新共同訳)】と罵られている点に注目すると、主イエスが語る【失われたもの(新共同訳)】とは、ザアカイをはじめとする、ユダヤ人社会から排除された人々の事と見えてきます。またその事は、一つ前の9節にある【今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから(新共同訳)】という主イエスの言葉からも感じられます。ですが、果たして本当にそれだけなのでしょうか。
 主イエスを迎えたザアカイは、群衆が主イエスの行動に対する“つぶやき”を耳にした時、主イエスに対して、自らの財産を貧しいものに施し、これまでの不正を償うと約束しました。そして、この言葉を聞いた時に、即ち、ザアカイが約束したことを実行する前に、主イエスは先ほど紹介した9節以下の言葉を語られました。このザアカイの変化に注目する時、私はザアカイ自身も失っていたものを、主イエスとの出会いによって取り戻したのではないかと気付かされたのです。

 ザアカイが失っていたものは、神が人を創造された際に期待した「他者と共に生きる」事でした。ザアカイは、現実世界で生きて行く中で、そのような生き方を見失っていました。しかし主イエスと出会い、財産を手放してでも、誰かと共に生きる事を願う者へと変えられたのではないでしょうか。
 主イエスとの出会いによって、失われたものを回復したのはザアカイだけではないでしょう。私たちも、そのような一人ではないでしょうか。その事を覚え、その喜びと感謝を隣人と分かち合う者でありたいと願うのです。
(2026年8月23日 主日礼拝メッセージより)

22/08/2026

8月23日の主日礼拝(10:30~11:30)も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 また、礼拝前には「聖書の学び(9:45~10:15)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。

≪8月23日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 26章1~6節(新共同訳)
賛美    新生3 ”あがめまつれ うるわしき主”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    ルカによる福音書 19章1~10節(新共同訳)
メッセージ 「失われたもの」※
賛美    新生427 ”われらの主イエスよ”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、23日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(8/30)の礼拝メッセージ「多いほど良いのか」
※ 次主日(8/30)聖書箇所:『マルコによる福音書』12章41~44節

15/08/2026

「不完全なヒトを愛する神」田森茂基牧師

『エゼキエル書』33章10~20節/新共同訳
【人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分自身の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ。また、悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる。それなのに、あなたの同胞は言っている。『主の道は正しくない』と。しかし正しくないのは彼らの道である。正しい人でも、正しさから離れて不正を行うなら、その不正のゆえに彼は死ぬ。また、悪人でも、悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、それゆえに彼は生きる。それなのに、お前たちは言っている。『主の道は正しくない』と。イスラエルの家よ、わたしは人をそれぞれの道に従って裁く。」】

 上記の箇所は、神が預言者エゼキエルに語り掛けた言葉です。この『エゼキエル書』は、「大きく2つに分けられる」という見方と、「大きく3つに分けられる」という見方の2節があるようですが、いずれの場合も、この33章は、新しい区切りの最初の部分であると考えられています。エゼキエル自身は、南王国ユダが滅亡する少し前に、妻子と共に捕囚民として「バビロニア帝国」に移住しました。その時は、まだ預言者ではありませんでしたが、神は捕囚民の中にあったエゼキエルを選び、預言者として立てました。神は、預言者エゼキエルを通して、捕囚民に対して審判を語りました。即ち、彼らが「約束の地」から捕囚民として連れ去られたのは、彼ら自身の罪に対する神の裁きである事を示されたのです。しかし、ついに南王国ユダが滅んだ時、神の言葉は裁きの告知から、救済の予告へと変化する事となります。その始まりが、本日の箇所である33章になる訳です。
 本日の箇所から少し遡って33章1節以下を見ると、神はエゼキエル個人に対して【見張り】について語ります。この部分だけを見ると、神が預言者に課した責任の重さを感じられますが、歴史的背景を重ねるとき、ここで神が語ろうとしたのは、「南王国ユダの滅亡に対する、エゼキエルの責任はない」という事だと読み取れます。実は、南王国ユダの滅亡と同時期に、エゼキエルは共に移住してきた妻を失っていました。その事も考慮すると、神は国と共に家族をも失い、嘆き悲しむエゼキエルを慰めるために語り掛けたのだろうと、私は受け取ります。そして、そのような個人への慰めに続けて神が語ったのが、本日の箇所であります。みなさんは、そのようは背景を思いつつ、ここで神が預言者を通じて民に語る言葉に耳を傾けるとき、ここから何を受け取られるでしょうか。
 先ほども触れましたように、これまで神がエゼキエルを用いて民に語り続けたのは、民の罪に対する裁きの実現でした。それ故に、10節にあるように、民は【我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか(新共同訳)】と嘆いている訳です。それに対し神は、【わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ(新共同訳)】と語られています。ここで言われている【悪人】とは、裁きを受けた民のことであると見られます。つまり、神は民の罪に対して裁きを下したが、見捨てることはないと宣言しているのです。これは、審判の終わりと救済の始まりを意味する言葉であると受け取ることができます。
 そのような、民の救済を願われる神の御心が表されたことに続けて、神の裁きに対して不平を漏らす人々のことが語られます。10節には、預言者の言葉に耳を傾けた人々の言葉が紹介されていますが、捕囚民の皆がそのように受け取っていた訳ではありませんでした。17節と20節に【主の道は正しくない(新共同訳)】と語る民がいた事が示されています。この人たちは、神の言葉に耳をふさぎ、自らの正しさを譲らなかった人々です。私は、彼らは「神は完全な存在を愛し、救われる」と思い込んでいたのではないかと想像します。しかし、神がエゼキエルを通じて語る言葉に耳を傾けるとき、神はむしろ“不完全な存在”を愛される方であると気付かされるのです。

 そもそも神は、“ヒト”を神と同様に完全なる存在ではなく、「不完全な存在」として創造されました。それ故に“ヒト”は過ちを犯します。そして、神はそのような“ヒト”を愛しつつ、自らの犯した過ちを悔い改めることを期待しておられるのではないでしょうか。過去と向き合う事で見える「自らの愚かさ」を知り、悔い改めつつ、繰り返し神に立ち帰る私たちでありたいと願うのです。
(2026年8月16日 主日礼拝メッセージより)

15/08/2026

8月16日の主日礼拝(10:30~11:30)も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 また、礼拝前には「聖書の学び(9:45~10:15)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。

≪8月16日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 25章6~10節(新共同訳)
賛美    新生3 ”あがめまつれ うるわしき主”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    エゼキエル書 33章10~20節(新共同訳)
メッセージ 「不完全なヒトを愛する神」※
賛美    新生476 ”ゆるされて”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、16日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(8/23)の礼拝メッセージ「失われたもの」
※ 次主日(8/23)聖書箇所:『ルカによる福音書』19章1~10節

08/08/2026

「イエスに招かれる」田森茂基牧師

新約聖書『マタイによる福音書』20章29~34節/新共同訳
【一行がエリコの町を出ると、大勢の群衆がイエスに従った。そのとき、二人の盲人が道端に座っていたが、イエスがお通りと聞いて、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。群衆は叱りつけて黙らせようとしたが、二人はますます、「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ。イエスは立ち止まり、二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた。二人は、「主よ、目を開けていただきたいのです」と言った。イエスが深く憐れんで、その目に触れられると、盲人たちはすぐ見えるようになり、イエスに従った。】

 上記の箇所に記されている出来事は、主イエスが「過越際(すぎこしさい)」に参加するために、エルサレムに向かう途中で起きました。この「過越祭」とは、ユダヤ教の三大祭りの一つで、『出エジプト記』12章に記されている出来事を記念する祭りです。かつて、イスラエルの民がエジプトの奴隷であった時代がありました。民の嘆きに耳を傾けられた神は、自らが力ある神であることを示す為に、エジプト国内の初子(ういご)の命を奪われました。そして、その際に「イスラエルの民は“神の民”である」ことの“しるし”として、彼らの家だけは例外として通り過ぎたことに由来しています。
 最初の29節を見ると【一行がエリコの町を出ると(新共同訳)】とあり、また本日の箇所の直後となる21章1節を見ると【一行がエルサレムに近づいて(新共同訳)】とありますので、この物語の舞台は、エリコからエルサレムへ向かう道中であることが分かります。なお、「月の町」という意味を持つエリコは、エルサレムから約27km離れており、「パレスチナ最古の町」として知られています。また、『ルカによる福音書』10章30節以下で主イエスが語られている「良き隣人」の“たとえ話”において、旅人が【追いはぎ】に襲われて瀕死の重傷を負わされるのが、エルサレムからエリコへと向かう道中となっています。この事から、決して安全ではない道であったと想像されます。それでも、エルサレムに向かう人はこの道を通るしかなかったのでしょう。それ故に、この物語に登場する【二人の盲人】も、この道を通る人々に施しを求めていたのでしょう。
 ちなみに、この「エリコの周辺で主イエスが盲人を癒される」という出来事は、『マタイによる福音書』だけでなく、『マルコによる福音書』と『ルカによる福音書』にも記されていますが、それぞれを見比べると若干の違いがあることが分かります。『マタイによる福音書』の特徴は、【二人の盲人】としている点、『マルコによる福音書』の特徴は、【バルティマイ】という盲人の名前を記している点、そして『ルカによる福音書』の特徴は、出来事がエリコに入る直前のこととされている点です。このような違いが生じている理由は定かではありませんが、今日は『マタイによる福音書』が【二人の盲人】と記していることを意識しながら見ていきましょう。
 いま、この物語が3つの福音書に記されており、それぞれに若干の違いがあることを紹介しましたが、大きな流れについては共通しています。具体的に挙げるならば4つの共通する流れがあります。まず、出来事は町の外で起きる。続いて、主イエスに助けを求める盲人に対し、群衆が叱りつけて黙らせようとする。更に、助けを求める盲人を、主イエスが呼び寄せる。そして最後には、癒された者が主イエスに従う、という流れです。私は、この物語の流れを踏まえる時に、ある違和感を覚えました。それは、3つ目として挙げた「助けを求める盲人を、主イエスが呼び寄せる」という出来事です。皆さんは、この時の主イエスが、自ら盲人の近くに行くのではなく、逆に盲人を呼び寄せたのは何故だと思われるでしょうか。
 ユダヤ教社会における【盲人】は、単に“目が見えない人”という事で済みませんでした。人が、自らの体に不都合を抱える場合、それが先天的であれ、後天的であれ、いずれも“神に対して罪を犯したことに対する罰を受けた”と理解されました。つまり【盲人】は、「本人、もしくはその家族が、神に対して罪を犯したことの結果として、“見る”事を神に奪われた人」と理解されていたと考えられます。そして、この事が、生きて行くためには誰かの助けが不可欠である彼らが、町の中ではなく、町の外にいた理由でもあります。
 また、冒頭でも紹介しましたが、この出来事は、主イエス一行が「過越祭」に参加するために、エルサレムに向かう途中での出来事でした。そして、その「過越祭」において、主イエスが十字架で処刑される事を踏まえると、この時に主イエスの周囲に集まっていたのは、主イエスがイスラエルの民をローマから解放する指導者となることを期待し、熱狂していた人々であると見られます。そのような人々にとって、主イエスの助けを求める【盲人】は、邪魔な存在でしかなかったでしょう。それ故に、人々は叫ぶ【盲人】を叱り、黙らせようとした訳です。そのような状況を思うと、なおさら、主イエスが、まるで力ある者が弱者に対してするように、【盲人】を呼び寄せた事が疑問に思えるのです。
 そのような疑問を抱く中で、先日、ある集会においてこの箇所について語る奨励を耳にした時に、一つの可能性が示されました。それは、この時に【二人の盲人】が座っていた【道端(新共同訳)】は、本来は彼らの居場所ではない為、主イエスは彼らの本来の居場所、即ち、誰からも除外される事のない公の場に、連れ戻したという可能性です。そして、『マタイによる福音書』では、主イエスが【二人を呼んで、「何をしてほしいのか」と言われた(新共同訳)】とありますが、【盲人】である彼らが、自力で主イエスのそばまで行くことは不可能ですので、他の福音書が言及しているように、【盲人】を連れてくるように助け手を遣わしたと考えられます。つまり主イエスは、【盲人】を道端へと排除した人々に、彼らを自分たちと同じ場所へと連れてくるように命じたという事です。この可能性を見出した時に、わたしは主イエスが【盲人】のためだけでなく、彼らを排除した人々の為にも、【盲人】を呼び寄せたのだと気付かされたのです。

 私たちの社会においても、効率や見栄えを重視するが故に、【道端】へと排除されている人々がいるのではないでしょうか。そのような人々を愛された主イエスの思いに倣い、私たちも主イエスに招かれた者として“隣人と共に生きる者”でありたいと願うのです。
(2026年8月9日 主日礼拝メッセージ)

08/08/2026

8月9日の主日礼拝(10:30~11:30)も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
  なお、隣教会へ牧師を「宣教支援」として派遣する関係で、教会での礼拝はメッセージ代読となります。
 また、礼拝前には「聖書の学び(9:45~10:15)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。

≪8月9日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 25章1~5節(新共同訳)
賛美    新生3 ”あがめまつれ うるわしき主”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    マタイによる福音書 20章29~34節(新共同訳)
メッセージ 「イエスに招かれる」※
賛美    新生417 ”主イエス弟子を招き”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、9日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(8/16)の礼拝メッセージ「不完全なヒトを愛する神」
※ 次主日(8/16)聖書箇所:『エゼキエル書』33章10~20節

住所

8条西1-1-11
Asahikawa-shi, Hokkaido
070-0058

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