05/09/2026
「共生の価値」田森茂基牧師
旧約聖書 『サムエル記 下』 12章1~14節/新共同訳
【主はナタンをダビデのもとに遣わされた。ナタンは来て、次のように語った。「二人の男がある町にいた。一人は豊かで、一人は貧しかった。豊かな男は非常に多くの羊や牛を持っていた。貧しい男は自分で買った一匹の雌の小羊のほかに/何一つ持っていなかった。彼はその小羊を養い/小羊は彼のもとで育ち、息子たちと一緒にいて/彼の皿から食べ、彼の椀から飲み/彼のふところで眠り、彼にとっては娘のようだった。ある日、豊かな男に一人の客があった。彼は訪れて来た旅人をもてなすのに/自分の羊や牛を惜しみ/貧しい男の小羊を取り上げて/自分の客に振る舞った。」 ダビデはその男に激怒し、ナタンに言った。「主は生きておられる。そんなことをした男は死罪だ。小羊の償いに四倍の価を払うべきだ。そんな無慈悲なことをしたのだから。」 ナタンはダビデに向かって言った。「その男はあなただ。イスラエルの神、主はこう言われる。『あなたに油を注いでイスラエルの王としたのはわたしである。わたしがあなたをサウルの手から救い出し、あなたの主君であった者の家をあなたに与え、その妻たちをあなたのふところに置き、イスラエルとユダの家をあなたに与えたのだ。不足なら、何であれ加えたであろう。なぜ主の言葉を侮り、わたしの意に背くことをしたのか。あなたはヘト人ウリヤを剣にかけ、その妻を奪って自分の妻とした。ウリヤをアンモン人の剣で殺したのはあなただ。それゆえ、剣はとこしえにあなたの家から去らないであろう。あなたがわたしを侮り、ヘト人ウリヤの妻を奪って自分の妻としたからだ。』 主はこう言われる。『見よ、わたしはあなたの家の者の中からあなたに対して悪を働く者を起こそう。あなたの目の前で妻たちを取り上げ、あなたの隣人に与える。彼はこの太陽の下であなたの妻たちと床を共にするであろう。あなたは隠れて行ったが、わたしはこれを全イスラエルの前で、太陽の下で行う。』」 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」】
『サムエル記 下』は、イスラエル統一王国の二代目国王となったダビデの物語が記されています。皆さんは、このダビデという人物について、どのような印象を持っておられるでしょうか。
ダビデはイスラエル統一王国の2代目の国王となりました。ですが、初代の国王は、ダビデの父ではありません。ダビデは、初代国王となったサウルの娘ミカルと結婚しましたので、関係的には親子と言えるかもしれませんが、それが理由でダビデが王になった訳ではありません。まだサウルが王であった時代に、神はダビデを選び、王とすることを計画されたのです。
ダビデの父親はエッサイという人物です。彼には8人の息子と共にベツレヘムで暮らしており、ダビデはその末子でした。ちなみにエッサイの父オベドは、『ルツ記』に登場するボアズとルツ夫妻の子ですので、エッサイもその財産を受け継ぎ、農園を営んでいたと推測されます。そこを訪れた預言者サムエルによって、ダビデは次の王に選ばれた時、彼は羊の世話をしていましたので、当然ながら王となる教育は受けていませんでした。そんなダビデがサウルに伝えるようになったのは、竪琴の技量を見込まれたからでした。そして、イスラエルとペリシテとの戦いの中で、ペリシテの戦士ゴリアトを殺害したことで、その名が知られる事となります。彼の働きによって利益を得た者や、その子孫たちがダビデを英雄視することに驚きはしませんが、聖書に記されたダビデの姿を客観的に見る時に私が感じるダビデの特徴は、感情の不安定さと幼さでした。本日の箇所からも、そのようなダビデの様子が伺えます。
ダビデを王に選んだ預言者サムエルの死後、神はナタンを預言者として立て、ダビデが行った不正を告発させました。この時すでに国王として絶大な権力を手にし、自らの欲望を叶えるためには、部下の命さえ軽んじるダビデに対し、その不正を指摘する事は容易なことではなかったでしょう。恐らくナタンは、自らの命が奪われることも覚悟しながら、それでも神の御心に従う事を選んだのだろうと、私は受け取るのです。最後の14節の後を見ると、15節の冒頭に【ナタンは自分の家に帰って行った。(新共同訳)】とだけ書かれています。その点からも、ナタンは一刻も早く、ダビデの下を立ち去りたかったのだと感じられます。それに対し、ダビデも反論や言い訳をすることなく、【わたしは主に罪を犯した(新共同訳)】と語るだけでした。ナタンの話術が優れていただけでなく、死を覚悟したナタンの言葉に、ダビデも自らが王であり、絶大な権力を持っていることを忘れさせたのだろうと、私は想像するのです。そのような二人の関係から、皆さんは何を受け取られたでしょうか。
私がここから受け取ったのは、本日のメッセージのタイトルにしました「共生の価値」でした。ダビデに限らず、“ヒト”は自らの過ちに気が付かないことが多々あります。そのような“ヒト”だからこそ、創造主なる神は、“ヒト”が互いに共生する事を求めたのではないでしょうか。私たちも自らの良し悪しに気付かせてくれる隣人と、共に生きて行きたいと願うのです。 (2026年9月6日 主日礼拝メッセージより)