06/06/2026
「光を放て」田森茂基牧師
旧約聖書『イザヤ書』60章1~5節/新共同訳
【起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。】
※ “/”は、聖書本文における改行の印
『イザヤ書』については、長年の研究の中で「南王国ユダ」の民が、“バビロニア帝国の捕囚となる前”、“捕囚となった後”、“捕囚から解放されてから”の3つに分けることが出来ると考えられており、本日の箇所は3つ目の”捕囚から解放されてから“の時代を背景にしている箇所となります。
捕囚期間中に、神への信仰を取り戻した一部の「南王国ユダ」の民は、バビロニア帝国がペルシャ王国によって滅ぼされたことで捕囚期間を終え、神がアブラムの子孫に与えると約束された「カナン地方」へと帰還しました。帰還した彼らが真っ先に着手したのは、神殿の再建でした。これにより、信仰生活を回復し、それを顧みられた神によって祝福が注がれ、かつてのダビデやソロモン王の時代にように豊かで力強い国の復興を願っていましたが、神殿再建はなかなか進まず、ようやく完成した後も、彼らが思い描いたような豊かさを得ることはありませんでした。そのような失意の中にあった民に対し、神が預言者を通して語ったのが、本日の箇所に記されている言葉であります。その点を踏まえる時、皆さんはこの『イザヤ書』の“みことば”をどのように受け取られるでしょうか。
『イザヤ書』60章は、【起きよ、光を放て(新共同訳)】という、二つの命令文から始まります。先ほど紹介しました、この箇所の背景を踏まえると、最初の【起きよ】については、「立ち上がれ」という言葉に置き換えても良いと思われます。自分が思い描いた未来と異なる現実に嘆き、悲しみ、うなだれる民に対し、神は顔を上げ、立ち上がえり、前に進むことを促しているのでしょう。そして、そのような民の事情をご存じだからこそ、神は「光れ」ではなく、【光を放て】と語り掛けたのではないでしょうか。
新約聖書『エフェソの信徒への手紙』5章14節に【眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。(新共同訳)】という“みことば”があります。この箇所が、『イザヤ書』60章1節以下の引用であるかは定かではありませんが、この『エフェソの信徒への手紙』にある“みことば”と向き合う事で、『イザヤ書』にある【光を放て(新共同訳)】という言葉が促しているのは、自らが光となって世を照らすことではなく、神が発する光を反射させることであると気付かされます。その事は、1節の後半にある【あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く(新共同訳)】という言葉にも込められていると言えるでしょう。
2節の【見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる(新共同訳)】という言葉からは、この時代が信仰者にとって厳しい時代であり、その事を神ご自身もご存じであったことが伺えます。そして、【主の栄光があなたの上に現れる(新共同訳)】という、神ご自身が民に光を注がれることを示す言葉が続くことで、最初の【起きよ、光を放て(新共同訳)】という命令が、自分たちの思い通りにならないことに嘆き、神から目を背けてうつむく民に対する怒りを込めた叱咤ではなく、「私があなた方に光を注ぐ。だから、あなた方もその光を世に向けて放ちなさい」という激励であると私は受け取るのです。
4節を見ると【目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。(新共同訳)】とあります。この言葉は、神による祝福が、目に見える形で示される事を物語っています。神によって示される祝福は、自分が想像していたものと異なることが多々あります。この『イザヤ書』の“みことば”にも【畏れ】や【おののき】という言葉で、その事が暗示されています。それ故に、【起きよ、光を放て】という神の言葉に応じる為には、「自らが思い描く理想の未来」を手放すことが大切だと、私は受け取るのです。その上で、神が最善を備え、導いてくださると信じるとき、自分が想像もしなかった神の祝福に気付けるのではないでしょうか。
現代の私たちにとって、【光を放て】という神の言葉は、神が世の光として派遣されたキリストを証しすることへの招きだと、私は読まされました。そして、その働きに仕える教会に、神はますます光を注ぎ、輝きを加えてくださると、私は信じます。それ故に私たちも、厳しい現実の中で、共に光を放ちましょう。
(2026年6月7日 主日礼拝メッセージより)