宗教法人 旭川バプテスト教会

宗教法人 旭川バプテスト教会 「宗教法人 旭川バプテスト教会」は、日本バプテスト連盟に加盟している最北端の教会です。

[集会案内]

聖書の学び 日曜 9:45~(A幼児小学、B少年少女、C成人)
主日礼拝  日曜 10:30~
祈祷会    水曜 10:30~

[沿革]
1954年7月 W・Hジャクソン宣教師により開拓伝道開始(~1956年3月)
1955年10月 「献堂式」ならびに「教会組織」
1956年7月 「日本バプテスト連盟」に加盟
1958年4月 連盟直属開拓伝道を開始した「釧路伝道所(現「日本バプテスト連盟 釧路キリスト教会」)」の母教会となる
1958年8月 「宗教法人」認可
1961年7月 教会付属「新町幼稚園」認可(~1983年3月)
1963年4月 1959年に連盟が開拓伝道を決議した「帯広伝道所(現「帯広バプテスト・キリスト教会」)」の母教会となる
1983年2月 1981年1月に北海道連合の総会にて「開拓伝道」が決議された「東光伝道所(現「日本バプテスト連盟 旭川東光キリスト教

会」)」の母教会となる

[歴代牧師]
柴田文雄 (1955年~1959年)
岩永光ニ (1960年~1970年)
村松庸夫 (1973年~1993年)
宮内康弘 (1993年~2008年)
田森茂基 (2010年~現在)

06/06/2026

「光を放て」田森茂基牧師

旧約聖書『イザヤ書』60章1~5節/新共同訳
【起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で/主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい/王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。息子たちは遠くから/娘たちは抱かれて、進んで来る。そのとき、あなたは畏れつつも喜びに輝き/おののきつつも心は晴れやかになる。海からの宝があなたに送られ/国々の富はあなたのもとに集まる。らくだの大群/ミディアンとエファの若いらくだが/あなたのもとに押し寄せる。シェバの人々は皆、黄金と乳香を携えて来る。こうして、主の栄誉が宣べ伝えられる。ケダルの羊の群れはすべて集められ/ネバヨトの雄羊もあなたに用いられ/わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。】
※ “/”は、聖書本文における改行の印

 『イザヤ書』については、長年の研究の中で「南王国ユダ」の民が、“バビロニア帝国の捕囚となる前”、“捕囚となった後”、“捕囚から解放されてから”の3つに分けることが出来ると考えられており、本日の箇所は3つ目の”捕囚から解放されてから“の時代を背景にしている箇所となります。
 捕囚期間中に、神への信仰を取り戻した一部の「南王国ユダ」の民は、バビロニア帝国がペルシャ王国によって滅ぼされたことで捕囚期間を終え、神がアブラムの子孫に与えると約束された「カナン地方」へと帰還しました。帰還した彼らが真っ先に着手したのは、神殿の再建でした。これにより、信仰生活を回復し、それを顧みられた神によって祝福が注がれ、かつてのダビデやソロモン王の時代にように豊かで力強い国の復興を願っていましたが、神殿再建はなかなか進まず、ようやく完成した後も、彼らが思い描いたような豊かさを得ることはありませんでした。そのような失意の中にあった民に対し、神が預言者を通して語ったのが、本日の箇所に記されている言葉であります。その点を踏まえる時、皆さんはこの『イザヤ書』の“みことば”をどのように受け取られるでしょうか。
 『イザヤ書』60章は、【起きよ、光を放て(新共同訳)】という、二つの命令文から始まります。先ほど紹介しました、この箇所の背景を踏まえると、最初の【起きよ】については、「立ち上がれ」という言葉に置き換えても良いと思われます。自分が思い描いた未来と異なる現実に嘆き、悲しみ、うなだれる民に対し、神は顔を上げ、立ち上がえり、前に進むことを促しているのでしょう。そして、そのような民の事情をご存じだからこそ、神は「光れ」ではなく、【光を放て】と語り掛けたのではないでしょうか。
 新約聖書『エフェソの信徒への手紙』5章14節に【眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。(新共同訳)】という“みことば”があります。この箇所が、『イザヤ書』60章1節以下の引用であるかは定かではありませんが、この『エフェソの信徒への手紙』にある“みことば”と向き合う事で、『イザヤ書』にある【光を放て(新共同訳)】という言葉が促しているのは、自らが光となって世を照らすことではなく、神が発する光を反射させることであると気付かされます。その事は、1節の後半にある【あなたを照らす光は昇り/主の栄光はあなたの上に輝く(新共同訳)】という言葉にも込められていると言えるでしょう。
 2節の【見よ、闇は地を覆い/暗黒が国々を包んでいる(新共同訳)】という言葉からは、この時代が信仰者にとって厳しい時代であり、その事を神ご自身もご存じであったことが伺えます。そして、【主の栄光があなたの上に現れる(新共同訳)】という、神ご自身が民に光を注がれることを示す言葉が続くことで、最初の【起きよ、光を放て(新共同訳)】という命令が、自分たちの思い通りにならないことに嘆き、神から目を背けてうつむく民に対する怒りを込めた叱咤ではなく、「私があなた方に光を注ぐ。だから、あなた方もその光を世に向けて放ちなさい」という激励であると私は受け取るのです。
 4節を見ると【目を上げて、見渡すがよい。みな集い、あなたのもとに来る。(新共同訳)】とあります。この言葉は、神による祝福が、目に見える形で示される事を物語っています。神によって示される祝福は、自分が想像していたものと異なることが多々あります。この『イザヤ書』の“みことば”にも【畏れ】や【おののき】という言葉で、その事が暗示されています。それ故に、【起きよ、光を放て】という神の言葉に応じる為には、「自らが思い描く理想の未来」を手放すことが大切だと、私は受け取るのです。その上で、神が最善を備え、導いてくださると信じるとき、自分が想像もしなかった神の祝福に気付けるのではないでしょうか。

 現代の私たちにとって、【光を放て】という神の言葉は、神が世の光として派遣されたキリストを証しすることへの招きだと、私は読まされました。そして、その働きに仕える教会に、神はますます光を注ぎ、輝きを加えてくださると、私は信じます。それ故に私たちも、厳しい現実の中で、共に光を放ちましょう。
(2026年6月7日 主日礼拝メッセージより)

06/06/2026

6月7日の主日礼拝も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 なお、教会の礼拝では、6月の「受浸者祝福式」と「主の晩餐式」を行います。
 礼拝前には「聖書の学び(9:45~)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。

≪6月7日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 23章1~5節(新共同訳)
賛美    新生395 ”伝えましょう イエスの救い”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    イザヤ書 60章1~7節(新共同訳)
メッセージ 「光を放て」※
賛美    新生42 ”朝の光の中で”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、7日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(6/14)の礼拝メッセージ「すべては神が創られた」
※ 次主日(6/14)聖書箇所:『ヨハネによる福音書』1章1~5節

30/05/2026

「主イエスの感謝」田森茂基牧師

新約聖書『ヨハネによる福音書』11章38~44節/新共同訳
【イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。】

 『テサロニケの信徒への手紙Ⅰ』5章16~18節に、【いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。(新共同訳)】という言葉が記されています。この『テサロニケの信徒への手紙』は、使徒パウロがテサロニケの町の教会に連なる兄弟姉妹に宛てて書き送った手紙です。そして、この手紙はテサロニケの町の教会だけでなく、様々な地域の教会に回覧され、それぞれの教会に連なる多くの人々の耳に届きました。やがて、ユダヤ教の正典である“ヘブライ語聖書(旧約聖書)”と共に、教会にとっての正典を整える中で“ギリシャ語聖書(新約聖書)”が編纂されました。その中には、主イエスの生涯を記した“福音書”だけでなく、『テサロニケの信徒への手紙』を含む、使徒パウロによって書かれた手紙も複数選ばれる事となり、それによって先ほど紹介した使徒パウロの教えも、今日まで続く教会の歴史の中で、世界中で共有されてきました。
 使徒パウロは、元々、ファリサイ派に属する熱心なユダヤ教徒であり、主イエスから直接、弟子としての訓練や指導を受けた事はありませんでした。加えて、彼が熱心に学んだ“ヘブライ語聖書”には【どんなことにも感謝しなさい(新共同訳)】といった教えが見当たらないことから、これは使徒パウロのオリジナルか、もしくは主イエスの弟子たちから受け継いだ教えであると考えられます。では果たして、主イエスご自身は、「感謝」について何を語られていたでしょうか。
 意外に思われるかもしれませんが、実は主イエスご自身が、弟子たちに「感謝」について教えた場面は、「福音書」には見当たりません。新共同訳聖書では、4つある「福音書」に合計12回ほど「感謝」という言葉が使われていますが、その内の10回が主イエスの発した言葉ですが、8回が食事の際の【感謝の祈り】であり、1回がたとえ話の中、そして唯一、主イエスが祈りの中で「感謝」という言葉を口にしたのが、本日の箇所の41節であります。本日は38~44節を分かち合いましたが、物語の始まりは11章1節からになります。主イエスに、知人であるラザロの病が知らされ、会いに行ったが間に合わず、ラザロは死んでしまいました。本日の箇所は、そのラザロの葬られた墓の間にようやくたどり着いた主イエスがラザロを呼び寄せたところ、すでに死んでいたラザロが墓から出てきたという場面です。そして、その中で主イエスが「感謝」という言葉を口にしたのは、ラザロを呼び寄せる直前に、神にささげた祈りの中での事でした。
 祈りの中で主イエスは、【父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。(新共同訳)】と祈っています。ここで言われている【私の願い】とは、ラザロの復活のことだと見られます。つまり、主イエスは、神からの恵みに対して「感謝」したという事であって、「ラザロの死」を感謝した訳ではないと言えるでしょう。その事は、今日の箇所の直前にある35節に【イエスは涙を流された(新共同訳)】と記されていることからも明らかです。そしてこの事から、主イエスご自身は、決してつらい時や悲しい時も、「自らの感情を偽ってでも、常に感謝しなさい」とは教えなかっただろうと、私は受け取るのです。

 では、なぜ使徒パウロは【すべてのことに感謝しなさい】と教えたのでしょうか。先ほど、福音書の中で「感謝」という言葉が使われている12回のうち、8回が【感謝の祈り】であったと紹介しました。そして、この8回のいずれもが、食事の場面における主イエスの祈りに関する表現であることから、主イエスは食事の度に【感謝の祈り】をささげていたのだろうと想像されます。更に、食事の時だけでなく、本日の箇所にあるように、日々の祈りの中にあっても、繰り返し神への「感謝」を表していたのではないでしょうか。そして、その事を傍で見続けた弟子たちは、「主イエスは、いつも感謝していた」というイメージを抱き、その姿に倣おうとの思いから【すべてのことに感謝しなさい】と教えていたのでしょう。即ち、冒頭で紹介した使徒パウロの教えには、「主イエスのように」という言葉が暗黙の前提としてあったのではないかと、私は受け取るのです。それが、使徒パウロのいうところの、【キリスト・イエスにおいて(新共同訳)】という言葉に込められていたのではないでしょうか。
 その事を踏まえつつ、常に神への感謝を忘れることなく、しかし同時に、自らの心を大切にされた主イエスの姿に倣う私たちでありたいと願うのです。 
(2026年5月31日 主日礼拝メッセージより)

30/05/2026

5月31日の主日礼拝も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 礼拝前には「聖書の学び(9:45~)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。
 
≪5月31日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 22章20~25節(新共同訳)
賛美    新生272 ”神の息よ”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    ヨハネによる福音書 11章38~44節(新共同訳)
メッセージ 「主イエスの感謝」※
賛美    新生59 ”父の神よ 汝がまこと”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、31日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(6/7)の礼拝メッセージ「光を放て」
※ 次主日(6/7)聖書箇所:『イザヤ書』60章1~7節

23/05/2026

「イエスを十字架につけた者は」田森茂基牧師

新約聖書『使徒言行録』2章29~39節/新共同訳
【兄弟たち、先祖ダビデについては、彼は死んで葬られ、その墓は今でもわたしたちのところにあると、はっきり言えます。ダビデは預言者だったので、彼から生まれる子孫の一人をその王座に着かせると、神がはっきり誓ってくださったことを知っていました。そして、キリストの復活について前もって知り、/『彼は陰府に捨てておかれず、/その体は朽ち果てることがない』/と語りました。神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。ダビデは天に昇りませんでしたが、彼自身こう言っています。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着け。わたしがあなたの敵を/あなたの足台とするときまで。」』 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」 人々はこれを聞いて大いに心を打たれ、ペトロとほかの使徒たちに、「兄弟たち、わたしたちはどうしたらよいのですか」と言った。すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」】
※ “/”は、聖書本文における改行の印

 本日の箇所は29節からですが、実際に“ペンテコステ”の日に起きた出来事が書かれているのは1~42節までであります。そして、「“ペンテコステ”の日に起きた出来事」と聞いて、多くの方がイメージされるのは、1~13節までに記されている、主イエスの弟子たちに聖霊が降り、様々な言語で【神の偉大な業(新共同訳)】を語り出した場面ではないでしょうか。ですが、今回はあえてその場面ではなく、聖霊を受けた弟子たちを代表して、使徒ペトロが語ったメッセージに注目したいのです。
 この、使徒ペトロのメッセージも、29節からではなく14節から始まります。礼拝では29~39節としましたが、皆さんにはぜひ機会を作っていただき、今週のどこかで2章1~42節を読んでいただきたいと願っております。その上で、28節までで使徒ペトロが語ったことを簡単に紹介すると、弟子たちの身に起きたことは預言の成就であり、十字架で処刑されたナザレのイエスこそが、かつてダビデが【主】と語った人物であるということでした。そして、本日の箇所である29節以下へと続きます。皆さんは、この使徒ペトロのメッセージに注目する時に、その中心メッセージはどこにあると読まれるでしょうか。
 注目したいのは、32節にある【神はこのイエスを復活させられたのです。(新共同訳)】という言葉です。主イエスから離れて逃げ去った弟子たちにとって、主イエスの復活は“罪の赦し”が具現化した、喜びの報せでした。それ故に、メッセージにおいても、主イエスの復活を通して福音が語られる事を期待します。ですが、よくよく読み進めて行くと、このメッセージの中心は“赦しの宣言”ではなく、”罪の告発”であると気付かされるのです。その事を如実に示しているのが、36節にある【あなたがたが十字架につけて殺したイエス(新共同訳)】です。なお、これに近い表現が23節にもありますので、このメッセージの聴き手として14節で名指しされている【ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち(新共同訳)】が、約束のメシアである主イエスを十字架につけて殺し、それによって神に背いた事実を突き付ける意図をもって、このメッセージが語られたと考えられます。ですが、本当にそれは正しい理解なのでしょうか。
 使徒ペトロは、【あなたがたが十字架につけて殺したイエス(新共同訳)】と語った訳ですが、本来は【あなたがた】ではなく、「わたしたち」と語るべきだと、私は受け取るのです。何故なら、先ほども触れたように、使徒たちも主イエスを裏切り、離れ去ったからです。しかし、残念ながら使徒ペトロは、その自らの罪に目を背けたまま、他者の罪を告発しました。私はここに、改めて人である弟子たちの弱さと、この弟子たちを赦し、用いられた神の愛と憐みの深さを見出すのです。

 このように、使徒ペトロのメッセージには、“罪の告発”という意図があったと見られますが、そこに主イエスの受難に対する復讐の意図があったかと言えば、そうではないでしょう。最後に、罪を自覚した人々に対し、主イエスが語ったのと同じ【悔い改めなさい(新共同訳)】という言葉を投げかけていることから、弟子たちも主イエスを失った事実を背負いながら、その姿に倣おうと精一杯だったのだろうと想像されます。だからこそ、神は不完全な弟子たちを教会とし、その歩みを祝福されたのではないでしょうか。それ故に、私たち自身も不完全であることを自覚し、悔い改めを忘れることなく、神の愛と聖霊の導きによって“教会”とされて行きたいと願うのです。
(2026年5月24日 主日礼拝メッセージより)

23/05/2026

5月24日の主日礼拝は、「ペンテコステ記念礼拝」としてささげます。個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 礼拝前には「聖書の学び(9:45~)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。
 なお、教会での礼拝後には「昼食」を準備しています。

≪5月24日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    使徒言行録 1章8節(新共同訳)
賛美    新生272 ”神の息よ”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    使徒言行録 2章29~39節(新共同訳)
メッセージ 「イエスを十字架につけた者は」※
賛美    新生322 ”主イエスのみ前に”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、24日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(5/31)の礼拝メッセージ「主イエスの感謝」
※ 次主日(5/24)聖書箇所:『ヨハネによる福音書』11章38~44節 表示を縮

16/05/2026

「復活した主イエスの遺言」田森茂基牧師

新約聖書『使徒言行録』1章6~11節/新共同訳
【さて、使徒たちは集まって、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。イエスは言われた。「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い服を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」】

『使徒言行録』1章3節を見ると、【イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。(新共同訳)】と書かれています。ここから、復活した主イエスが弟子たちの前に現れ、【神の国について話された】のは、主イエスの復活が弟子たちに明らかにされるという、世界中が「イースター」として記念している出来事が起きた日を含んで40日という事になります。これを今年のカレンダーに合わせて考えるならば、「イースター」を記念した5/3を1日目とした時の40日目は、6/14(先週の木曜日)という事になる訳です。そして、次主日(5/24)は「イースター」から数えて50日目となりますので、主イエスが弟子たちに対して予告していた聖霊が注がれた「ペンテコステ」の出来事を記念するのです。
 『使徒言行録』1章3~5節には、復活した主イエスが、弟子たちとの会食の席で語られた【「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」(新共同訳)】という言葉が記されていました。これに対し、本日の箇所には、復活から40日目を迎え、いよいよ弟子たちと別れて地上を去る主イエスが、【父の約束されたもの(新共同訳)】である聖霊が注がれた後の行動について語られた言葉が記されています。即ち、8節にある【あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。(新共同訳)】という言葉が、主イエスが弟子たちに対して語った最後の言葉であったことを、この『使徒言行録』は語り伝えてきました。皆さんは、これが復活した主イエスから弟子たちに贈られた最後の言葉、つまり遺言であることを思う時に、この言葉に主イエスがどのような思いを込めて語られたと想像されるでしょうか。
 “復活した主イエスと弟子たちとの別れ”という物語における冒頭となる6節を見ると、弟子たちが主イエスに対して【主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか(新共同訳)】」と尋ねたことが記されています。おそらく弟子たちは、この会話の直後に、主イエスが地上を離れるとは想像もしていなかったのでしょう。この弟子たちの言葉からは、「十字架以前のように、また主イエスと過ごす日常が続いて行く」という考えが前提にあるように思われます。或いは、あの十字架の出来事を“なかったこと”にしたかったのかもしれません。そしてこの弟子たちの姿勢が、十字架以前からあった主イエスとの思いのすれ違いを、さらに広げてしまったと、私は受け取りました。だからこそ主イエスは、弟子たちへの遺言として、現実に目を向けて生きることを促そうとの思いから、この先における具体について語ったのではないかと想像するのです。
 この“現実に目を向けて生きることを促そう”との主イエスの思いは、『ヨハネによる福音書』20章19節以下にある、復活した主イエスが弟子たちに【手とわき腹とをお見せになった(新共同訳)】という記述からも読み取れます。また、弟子たちが“現実から目を背けている”という事柄についても、彼らが復活の主イエスと再会して以降、一度も十字架、及び、その前後の話をしていないことからも明らかです。もしかしたら、聖書に書いてないだけで、実際にはあったのかもしれませんが、今日の箇所での主イエスとのやり取りを見る限り、弟子たちは自分たちが主イエスに背き、自分自身の言葉をも裏切った事実、更には、その結果として“主イエスが十字架で死んだ”という現実と向き合うことも、それらを受け容れることもまだ出来ていないのだろうと、私は感じるのです。そして、この最後の場面において、そのような弟子たちの弱さを主イエスは指摘することなく、「イスラエルの復興」という明日を夢見る弟子たちに対し、「聖霊が注がれ、主イエスの証人として地の果てまで出かけて行く」という明日を、希望として示されたのではないでしょうか。私はここに、自らを裏切ってしまった弟子たちに対し、償いの機会を与えようとする、主イエスの深い憐みを見出すのです。

 主イエスが最後に語った「約束の聖霊」は、その遺言通りに弟子たちに注がれました。この事柄に示された、主イエスの深い愛が私たちにも注がれていることを覚えつつ、その喜びを隣人と分かち合って行きたいと願うのです。
(2026年5月17日 主日礼拝メッセージより)

16/05/2026

5月17日の主日礼拝も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 礼拝前には「聖書の学び(9:45~)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。
 なお、教会での礼拝後には「大掃除(教会前庭)」を行います。

≪5月17日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 22章15~19節(新共同訳)
賛美    新生272 ”神の息よ”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    使徒言行録 1章6~11節(新共同訳)
メッセージ 「復活した主イエスの遺言」※
賛美    新生471 ”あぁ主は愛なり(背きと恥との)”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、17日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(5/24)の礼拝メッセージ「イエスを十字架につけた者は」
※ 次主日(5/24)聖書箇所:『使徒言行録』2章29~39節

09/05/2026

「主に求め歩む」田森茂基牧師

旧約聖書『詩編』25編1~5節/新共同訳
【主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み/わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。あなたに望みをおく者はだれも/決して恥を受けることはありません。いたずらに人を欺く者が恥を受けるのです。主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください。あなたのまことにわたしを導いてください。教えてください/あなたはわたしを救ってくださる神。絶えることなくあなたに望みをおいています。】
※ “/”は、聖書本文における改行の印

 『詩編』という書簡は、その名が示す通り「詩集」です。ただし、原典である「ヘブライ語聖書」では、日本語で「諸讃歌」と訳せる“テヒリーム”という題がつけられていることから、実際には「歌詞集」であり、それぞれに曲や節がつけられており、礼拝を中心とする宗教儀式や、各種の式典などにおいて用いられていたと考えられています。
 この『詩編』という書簡は、150編で構成されており、『聖書』に編纂されている全66巻の中で最もボリュームのある書簡でもあります(新共同訳聖書だと155ページ)。ちなみに、『詩編』に次いでボリュームがあるのは、『イザヤ書(全66章)』と『エレミヤ書(全52章)』で、いずれも111ページとなっています。その『詩編』に含まれている150の詩には、それぞれに特徴があります。その中でも特に風変わりなものが、各行の最初の単語が「ヘブライ語」の22文字の順番で並べられている「アルファベット歌」と呼ばれている、9つの詩です。『聖書』全体で、最も長い1章(1編)として知られている『詩編』119編もその一つであり、文字ごとに8節ありますので、22文字で合計176節(約10ページ)となっています。その他には、9、10、34、37、111、112、145編、そして本日の箇所である25編が「アルファベット歌」となっています。ですので、先ほどお読みした1~5節は、それぞれA(アレフ)、B(ベート)、G(ギメル)、D(ダレト)、H(ヘー)で書き始められている訳です。そのような制限がある中で作られた「神を賛美する詩」に、共に注目してみましょう。
 新共同訳聖書では、1節は【主よ、わたしの魂はあなたを仰ぎ望み(新共同訳)】と訳されていますが、岩波書店から出された「旧約聖書翻訳委員会訳(以後、「岩波訳」と略)」の『詩編』25編を見ると、【あなたにこそ、ヤハウェ(主)よ、わが魂を私は挙げる】という風に単語の並び順で直訳されています。この違いは、「アルファベット歌」であるために、原文には文法に乱れがあり、翻訳が難しいことを物語っています。同様に続く2節を見ると、新共同訳の【わたしの神よ、あなたに依り頼みます。どうか、わたしが恥を受けることのないように/敵が誇ることのないようにしてください。(新共同訳)】に対し、「岩波訳」では【わが神よ、あなたにわたしは拠り頼む。私に恥をかかせず、わが敵どもを私のことで欣ばせないで下さい】と、こちらも若干の違いがありますが基本的に同じ内容で訳されています。その点に注目すると、1節がいかに無理のある一文であるかが浮き彫りになります。むしろ、1節がなくても詩として十分に成り立つと言っても過言ではないでしょう。それにも関わらず、あえてこの1節から始めているのは、この「アルファベット歌」には、“子供たちが文字を学習する教材”という役割があったからだと考えられます。しかも、それを無意味な文章ではなく「神を賛美する詩」として作ることで、文字と同時に信仰をも継承しようとの熱意を、私はこの不自然さの中に感じるのです。
 3節を見ると、この詩の作者にとっての【敵】が、【いたずらに人を欺く者(新共同訳)】と表現されています。つまり、かつては味方であった者と、今は敵対しているという事が見えてきます。別の表現をするならば、以前は同じ道を歩んでいた者同士が、いまは互いに異なる道を進み、敵対しているという事です。そのような背景にを踏まえる時、皆さんは4節にある【主よ、あなたの道をわたしに示し/あなたに従う道を教えてください(新共同訳)】という、祈りとも呻きとも捉えられるこの言葉を、どのように受け取られるでしょうか。
 ただ4節だけに注目すると、将来が見通せず、迷いの中にある者が、神に助けを求めているように聞こえてきますが、先ほど触れましたように、そのような不安定さに加えて、かつては共に歩んでいた者と道を違え、その結果、対立してしまった現状を踏まえる時、この世の価値観か信仰かの選択を迫られ、信仰を選んだ者の「果たして、本当に自分の選びは正しかったのか」という問いを抱えながらも、それでも信仰者として生きようとする切なる願いを、私はここに見出します。有名な讃美歌の「いつくしみ深き(新生讃美歌431番)」の3番に「世の友、我らを棄て去る時も、祈りに応えて労り給わん」という歌詞がありますが、私にはこの歌詞と、『詩編』25編の詩とが重なるのです。
 最後の5節を見ると、もう一度【あなたのまことにわたしを導いてください(新共同訳)】という願いを神に告げた上で、最終的に【絶えることなくあなたに望みをおいています(新共同訳)】という決意を込めた信仰告白で、一つ目の区切りを終えています。ですが、実は6節以降に目を向けると、この人物は以前から信仰に堅く立っていた訳ではないことが、明らかにされていきます。7節では【わたしの若いときの罪と背きは思い起こさず(新共同訳)】と願い、8節では【罪人に道を示してくださいます(新共同訳)】と語った上で、11節にて【罪深いわたしをお赦しください(新共同訳)】と、自らが罪人の一人であることを告白しています。それらの事は、この詩の作者が、決して「正しい者を救う神」に助けを求めているのではないことを示しています。自らの選んだ“正しさ”に迷いながら、これまで自分が生きる中で重ねてきた愚かさを自覚しつつ、神の愛と憐みにすがるしかない弱さの中で、それでも【あなたはわたしを救ってくださる神(新共同訳)】と望みを置く者の祈りが、ここに表されているのだと、私は受け取るのです。

 本日のタイトルは、主題聖句に選んだ『詩編』25編4節と併せて、旭川東光キリスト教会が、2026年度の教会目標として掲げている言葉です。かつて、旭川バプテスト教会から株分けされた東光教会は、主任牧師不在となって3年目を迎えました。先の見えない不安の中で、それでも「主に求め歩む」との想いを言葉にしている東光教会を覚えつつ、共に主に向かって【あなたはわたしを救ってくださる神】との信仰を込めて、祈りを合わせる私たちでありたいと願うのです。 
(2026年5月10日 主日礼拝メッセージ)

09/05/2026

5月10日の主日礼拝も、個々の事情や判断で礼拝に集い得ない方、集う事を断念されている方がおられることを覚え、礼拝プログラムを共有します。それぞれの場でささげられる、礼拝、祈り、賛美を繋ぎましょう。
 礼拝前には「聖書の学び(9:45~)」クラスがあり、どなたの参加も歓迎いたします。
 なお、教会での礼拝は、牧師を東光教会に宣教支援として派遣するため、メッセージ代読となります。

≪5月10日 主日礼拝プログラム(個人礼拝版)≫
招詞    イザヤ書 22章12~14節(新共同訳)
賛美    新生272 ”神の息よ”
祈祷    主の祈り
祈りの時
聖書    詩編 25編1~5節(新共同訳)
メッセージ 「主に求め歩む」※
賛美    新生495 ”主よみ手もて”
頌栄    新生668 “みさかえあれ(A)”

※ 礼拝メッセージは、10日(日)の朝までに、HP上に掲載します。
※ 次主日(5/17)の礼拝メッセージ「復活した主イエスの遺言」
※ 次主日(5/17)聖書箇所:『使徒言行録』1章6~11節

住所

8条西1-1-11
Asahikawa-shi, Hokkaido
070-0058

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