31/05/2026
山門伝道掲示板 六月一日
「摩尼珠人識らず。如来蔵裡に親しく収得す」
たった一人の悩みを解決しようという気持ちが世の中全体を幸せにする。
以前ご紹介した永嘉禅師の証道歌の言葉です。摩尼はサンスクリット語マニの音写で珠や宝珠でありますので、摩尼珠は梵漢の合成語であります。また摩尼宝珠・如意宝珠ともいいイメージとしては宝石の珠であり、それを仏教では如来蔵・仏性にたとえています。
先日、毎朝の勤行の際に数珠を摺りながら拝んでいるとき、ふと百八個繋がっている珠を見てこの一つ一つの珠がが摩尼珠だとすれば、数珠は一人一人の仏性をつなぎ合わせたものであり、紐は縁であり、それがすべて円形で繋がっている。それが仏の世界から見た(仏眼)世の中の仕組みを表しているように感じたのです。
しかし、私たちの肉眼の世界はそのようには見えません。ひとつひとつが別々であって、それそれが異なって見えるので、脳の働きが優劣、善し悪し、美や醜など分別してしまうのです。それだけでなく、自分自身でさえ比べる対象にして思い悩み苦しむのが人間の性なのかもしれません。
物質の表面だけ見ないで、その本質を見極めようというのが仏教であり、禅の第一歩であります。その本質は一人一人全く同じ尊い仏の「ひとつ命(如来蔵、仏性)」を持っていて、さらにそれらがつながり合っているのです。
「摩尼珠人識らず、如来蔵裡に親しく収得す」
人間はすべての存在にそのような尊いひとつ命が具わっていることを知りません。だから、差別の問題はこれだけ文明が発達しても解決に至らないどころか、人間同士の争い憎み合う戦争が収まる気配すらありません。ただし、だからといってたとえいくら平和を訴えても、一時的な効果しかないでしょう。相手の行動を批判するのではなく、まず自分自身をはっきりさせることです。
道元禅師は「仏道をならうとは自己をならうなり」のお示しの通り、自分自身の中の摩尼珠を自覚することです。この宝に気がつくと、自分以外の全ての存在とも数珠のように繋がっていて、ひとつ命を形成していることもはっきりしてきます。
「自己をならう」には坐禅が一番適していると思います。なぜなら、全ての仏様は坐禅をしてこの「摩尼珠」「ひとつ命」「如来蔵」「仏性」に目覚められたのですから確実な方法といっても過言ではありません。
数珠と同じで繋がっている全ての摩尼珠も同じものです。お隣の珠、相対する珠も全く自分と同じ、要するに自分自身なのです。自分でない珠はない、すべてが自分である。逆に言えばすべてが他でもあるともいえます。自も他もひとつの世界、自も他も忘じた世界を「自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」と道元禅師は続けてお示しされました。
ですから、たった一人の悩みや苦しみも実は私の悩み苦しみでもあり、ひとつ命である全体のそれでもあるのです。
道元禅師は傘松道詠で「六つの道 遠近(おちこち)迷う輩は 吾が父ぞかし、吾が母ぞかし」と詠われましたが、たった一人の他人の悩みであっても、自分自身の父母だと思ってみるのです。誰でも親身になります。子どもた兄弟と思ってもでもいいでしょう。そのように、なんとかその苦しみをみんなで解決しようという気持ちが社会全体に広がったなら、それだけで世の中全体の雰囲気はガラッと変わっていくのではないでしょうか。
それと同時に自分自身を磨き深めていこうという気持ち、即ち菩提心も芽生えてくると思います。なぜなら、自分自身を磨き自身の問題に向き合うことなく、他人の問題を根本から解決することはとても難しいからです。
綺麗事に聞こえるかもしれません。私自身もまだまだ実践ができておりません。それでもそうありたいと思っております。