自由と包括の独立アングリカン教会 The Independent Anglican Church of Liberty and Affirmation

自由と包括の独立アングリカン教会 The Independent Anglican Church of Liberty and Affirmation 自由と包括の独立アングリカン教会 The Independent Anglican Church of Liberty and Affirmation, 宗教団体, GTS-Y10M, 3-2-4-206 Asabu-cho, Kita-ku, Sapporo-shiの連絡先情報、マップ、方向、お問い合わせフォーム、営業時間、サービス、評価、写真、動画、お知らせ。

私たちの教会は、信仰の自由と一人ひとりの尊厳を大切にし、アングリカン・コミュニオンから独立し、新たな歩みを切り拓いてきた共同体です。性別や性自認を問わず聖職按手と聖婚の祝福を行い、社会正義の実現に取り組んでいます。
私たちは、神の愛に生かされながら、互いに支え合い、ともに成長することを大切にします。祈りと奉仕を通して、平和と公正がこの世界に広がることを願い、歩みを続けています。教会とは、信仰をあらわす場であり、同時にこの社会に責任を果たす場でもある、そこにリベラル・アングリカニズムの霊性が息づいています。 自由と友愛の独立カトリック教会は、アングリカン・コミュニオンから独立した聖公会の教会として、その伝統を大切にしながらも、時代の変化に対応し、自由と友愛の精神を重んじる共同体です。私たちは、神の無条件の愛に支えられ、すべての人を受け入れる包括的な信仰を大切にしています。

「自由の翼、友愛

の心で未来を照らす」という言葉に込められた思いを胸に、信徒一人ひとりが祈りと奉仕を通じて信仰を深め、社会の中で神の愛を具体的に生きることを重視しています。当教会は、聖公会の伝統的な礼拝と教えを基盤としながらも、多様性を尊重し、すべての人々が共に生きる社会の実現を目指しています。

また、社会正義の実現を使命とし、ジェンダー平等やLGBTQ+の権利擁護、貧困問題、環境保護など、現代社会が直面する課題に積極的に取り組んでいます。私たちの教会は、神の愛を信仰の枠に留めず、実生活の中で形にしていく場です。共に歩む仲間として、どなたでも心から歓迎します。

降誕日 説教草稿「言(ことば)が肉となった世界で、なお生きるために」【教会暦】降誕日【聖書日課】旧約 イザヤ書 52:7-10使徒書 ヘブライ人への手紙 1:1-12福音書 ヨハネによる福音書 1:1-14【本 文】 降誕日を迎え、私たちは...
24/12/2025

降誕日 説教草稿「言(ことば)が肉となった世界で、なお生きるために」

【教会暦】
降誕日

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 52:7-10
使徒書 ヘブライ人への手紙 1:1-12
福音書 ヨハネによる福音書 1:1-14

【本 文】
 降誕日を迎え、私たちは一年のうちで最も語り尽くされた物語の前に立っている。あまりにも親しまれ、あまりにも消費され、時にその鋭さを失ったかのように見えるクリスマス。しかし、今日の聖書日課は、決して感傷に回収されることのない、神の根源的な行為を告げている。神は語られたのではない。神は来られた。しかも、理念としてではなく、肉として、歴史として、取り消し不能なかたちでである。

 イザヤ書は、「良い知らせを伝える者の足は、山の上で何と美しいことか」と歌う。この言葉は、抽象的な希望の詩ではない。捕囚という現実、破壊された都、尊厳を剥奪された民の記憶を背負った叫びである。平和を告げる声、救いを宣言する声は、権力の中心からではなく、荒れ果てた山道を歩く者の足音として届く。神が王となられた、という宣言は、支配の完成ではなく、抑圧の終わりを告げる言葉である。主は、その腕を諸国の目の前に現される。それは暴力による勝利ではなく、隠されていた真実がもはや覆い隠せなくなる出来事である。

 ヘブライ人への手紙は、この神の自己開示を、さらに厳密な神学的言語で語る。神は、かつて預言者を通して断片的に語られたが、終わりの時には御子によって語られた。ここで重要なのは、情報量の増加ではない。神は、御子を通して「語り切った」のである。御子は、神の栄光の反映であり、本質の完全な現れである。もはや別の神を想像する余地はない。力で支配する神、犠牲を要求する神、恐怖によって人を従わせる神は、ここで明確に否定される。飼い葉桶から十字架に至るこの一つの生のかたちこそが、神の真実である。

 そしてヨハネによる福音書は、この出来事を、時間と空間を超える壮大な序文として語る。「初めに言があった」。この言は、単なる音声や概念ではない。世界を存在させ、意味づけ、関係を生み出す力そのものである。その言が肉となった。ここに、キリスト教信仰の決定的な scandal がある。神は人間を一時的に装ったのではない。神は、人間であることを引き受けた。飢え、疲れ、誤解され、拒まれ、殺される可能性を含めて、である。

 「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。この一文は、宗教的慰めではなく、世界観の転換を要求する宣言である。もし神が肉となったなら、この世界はもはや神不在の場所ではない。政治も、経済も、戦争も、貧困も、情報も、身体も、すべてが神学的問いの場となる。霊的なものと世俗的なものを切り分け、清らかな領域にだけ神を閉じ込めることは許されない。

 現代世界は、かつてないほど「言」に満ちている。言葉は即座に拡散され、操作され、商品化される。真実よりも刺激が、熟慮よりも断定が歓迎される時代である。その中で、命を守るべき言葉が、人を殺すために用いられる。排外主義を正当化する言葉、戦争を不可避と語る言葉、貧しさを自己責任に還元する言葉が、日常的に流通している。ヨハネの語る「言」は、そのすべてに対する批判である。神の言は、人を生かすために肉となった。人を切り捨てる言葉は、どれほど宗教的であっても、神から出たものではない。

 降誕は、神が世界を愛されたという宣言である。しかしそれは、世界を無条件に肯定したという意味ではない。神は、壊れた世界をそのままにして愛したのである。だからこそ、神は傍観者ではなく、当事者として来られた。寒さも、貧しさも、政治的抑圧も、宗教的偽善も、その内側から引き受けるために。

 私たちはこの日、光の到来を祝う。しかしヨハネは、光は闇の中で輝いていると言う。闇が消え去ったとは言わない。闇は今も存在し、光を理解しない。それでも光は輝く。これがクリスマスの現実である。希望は楽観ではない。希望とは、闇を見据えた上で、それでもなお世界を信じる決断である。

 公同の教会は、この降誕の現実に立つ共同体である。聖餐にあずかる私たちは、肉となった言を、自らの身体に受ける。これは敬虔な儀式である以前に、政治的であり、社会的であり、倫理的な行為である。神が肉となった以上、私たちの身体と生活もまた、神の現臨の場とされる。どこで誰と共に生きるのか、何に沈黙し、何に声を上げるのか、そのすべてが信仰の告白となる。

 降誕日、私たちは幼子を拝む。しかし同時に、この世界の現実から目を逸らすことは許されない。神は、そこから逃げなかったからである。言が肉となった世界で、なお生きること。それは容易ではない。しかし、神はすでにその道を歩まれた。だから私たちは、恐れずに歩むことができる。光は闇の中にある。そしてその光は、闇に打ち勝つ。これが、降誕日の福音である。

【教会暦】降誕日

24/12/2025

聖歌 82番
「み使いの主なるおおきみ」

降臨節第4主日 説教草稿 「恐れのただ中で生まれる神」【教会暦】降臨節第4主日 2025年12月21日 A年【聖書日課】旧約 イザヤ書 7:10-17使徒書 ローマの信徒への手紙 1:1-7福音書 マタイによる福音書 1:18-25【本 文...
20/12/2025

降臨節第4主日 説教草稿 「恐れのただ中で生まれる神」

【教会暦】
降臨節第4主日 2025年12月21日 A年

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 7:10-17
使徒書 ローマの信徒への手紙 1:1-7
福音書 マタイによる福音書 1:18-25

【本 文】
 クリスマスは、穏やかな光と懐かしい旋律に包まれた、心安らぐ祝祭として語られがちである。しかし、降臨節第4主日が私たちに差し出す言葉は、そのような安心の手前で立ち止まることを求める。主の降誕は、整えられた舞台の上で起こった出来事ではない。恐れ、戸惑い、決断不能の沈黙、そのすべてを引き受ける場所に、神は来られた。クリスマスの光は、闇を知らない者のためではなく、闇の深さを知り尽くした者のために灯される。

 イザヤ書に描かれるインマヌエルの預言は、信仰の高揚ではなく、政治と軍事の現実に追い詰められた王の物語である。アハズは信仰者としての言葉を口にしながら、神を信頼する決断からは逃げた。主はその不信仰を断罪する前に、なお「しるし」を与えると言われる。若い女が身ごもるという出来事は、力による解決ではなく、弱さのただ中で続いていく命の徴である。神は、人間が強くなるのを待たれない。恐れの中で立ち尽くす私たちの現実に、共におられる方として現れ出る。

 この預言が、マタイによる福音書でヨセフの物語として具体化されることは決定的である。ヨセフは義人であった。しかし、その義は、マリアと共に生きる未来を切り開く力を持っていなかった。彼は正しさの名の下に、静かな別れを選ぼうとする。そこに差し込まれる御使いの言葉は、慰めではなく、命令である。「恐れるな」。この言葉は、恐れが消えるという意味ではない。恐れを抱えたまま、それでも従え、という招きである。ヨセフは説明を求めず、保証も得ない。ただ起き上がり、引き受ける。その沈黙の中で、神は歴史に身を置かれる。

 ローマの信徒への手紙の冒頭で、パウロは福音を「神の子についての知らせ」と語る。それは抽象的な信条ではなく、肉を取り、人間の系譜と傷を引き受けた方についての現実の宣言である。この福音は、恵みと平和をもたらすが、それは現状を肯定する平穏ではない。神の正義が、私たちの社会の不正義を暴き、私たち自身の沈黙を問う平和である。パウロが召し出されたように、教会もまた、その福音のために安定を失うことを恐れてはならない。

 クリスマスを前にした私たちは、ヨセフの選択を自分の問題として引き受けるよう招かれている。排除が常態化し、貧しさが自己責任として処理され、戦争が言葉によって正当化される世界において、ただ「正しく」生きることは容易である。しかし、神はその一歩先を求められる。恐れを理由に距離を取るのではなく、共に生きる決断をせよ、と。インマヌエルとは、神が人間の世界に同情されたという意味ではない。神が私たちの歴史に責任を持たれた、という宣言である。

 まもなく私たちは、飼い葉桶に横たえられた幼子を見上げる。その姿は、力の象徴ではない。しかし、この弱さこそが、世界を変える神のかたちである。恐れの中で与えられた名、イエス。神は救う。神は我らと共におられる。この真理に支えられ、主の民として歩み出そう。聖餐の恵みによって養われ、公同の教会として、光を必要とする場所へ遣わされるために。クリスマスは、私たちの人生を安全にするためではなく、神と共に生きるために来るのである。

【教会暦】降臨節第4主日 2025年12月21日 A年

教会時論 2025/12/13「核の言葉を慎め」---官邸中枢から放たれた核保有発言は、抑止ではなく不信を生む。被爆国日本が踏み外してはならない一線は、すでに明白である。--- 2025年12月18日、首相官邸で安全保障政策を担う政府高官が...
20/12/2025

教会時論 2025/12/13「核の言葉を慎め」
---官邸中枢から放たれた核保有発言は、抑止ではなく不信を生む。被爆国日本が踏み外してはならない一線は、すでに明白である。---

 2025年12月18日、首相官邸で安全保障政策を担う政府高官が、非公式取材に対し「日本は核を持つべきだ」と語った。個人的見解との断りは添えられたが、その場が官邸であり、地位が安保の要である以上、発言は私語ではない。翌19日、官房長官は政府として非核三原則を堅持すると説明したが、撤回や更迭には踏み込まなかった。ここに、言葉の軽さと責任の重さの乖離が露わになった。

 日本は、原子力基本法と日米原子力協定により原子力の平和利用を自らに課し、核拡散防止条約の下で非保有国として国際秩序に身を置いてきた。憲法解釈の抽象論を持ち出しても、政策判断としての非核三原則は「国是」である。台湾海峡の緊張、北朝鮮の核開発、ロシアの恫喝――危機の列挙は容易だが、だからこそ言葉は抑制されねばならない。官邸から核を口にすれば、周辺国の警戒を煽り、同盟国の信頼を削る。抑止は高まらず、緊張だけが増す。

 教会は力の論理に与しない。聖書と伝統と理性の均衡は、恐怖に駆られた拡声ではなく、真実に立つ沈黙と節度を求める。核兵器は「最後の守り」ではない。人の尊厳を無差別に踏みにじる道具であり、被造世界を不可逆に傷つける。広島・長崎の被爆者が世界に刻んだのは、悲惨の記録だけではない。核を用いてはならないという「タブー」を、人類の良心として根づかせる努力であった。これを官邸内の思いつきで損なうなら、国家は自らの道義を裏切る。

 ゆえに、首相は曖昧さを捨てねばならない。発言の即時撤回、当該高官の更迭、非核三原則を見直さず堅持する明言を、速やかに行うべきだ。言葉は行為で裏打ちされて初めて信頼となる。読者に求めるのも同じである。恐怖に同調せず、和解を志向し、核軍縮と廃絶の現実的歩みを支持せよ。教会は祈りと行いを一致させ、弱い立場の声に耳を澄まし続ける。核の言葉を慎め。国の品位は、抑制の中でこそ守られる。

「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に勝ちなさい。」
(ローマの信徒への手紙 12章21節)

核の言葉を慎め 官邸中枢から放たれた核保有発言は、抑止ではなく不信を生む。被爆国日本が踏み外してはならない一線は、すでに明白である。  2025年12月18日、首相官邸で安全保障政策を担う政府高官が、非公式取材に.....

降臨節第3主日 説教草稿「揺れる問いのただ中で、来たり給う主を待つ」【教会暦】降臨節 第3主日 2025/12/14【聖書日課】旧約 イザヤ書 35:1-10使徒書 ヤコブの手紙 5:7-10福音書 マタイによる福音書 11:2-11【本文...
14/12/2025

降臨節第3主日 説教草稿「揺れる問いのただ中で、来たり給う主を待つ」

【教会暦】
降臨節 第3主日 2025/12/14

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 35:1-10
使徒書 ヤコブの手紙 5:7-10
福音書 マタイによる福音書 11:2-11

【本文】
 降臨節第3主日を迎え、私たちは待つことのただ中に立たされています。降臨節とは、単に救い主の到来を静かに指折り数える期間ではありません。むしろそれは、希望と不安、確信と疑念が交錯する時間であり、主の民が自らの現実を直視しつつ、なお神の約束に身を委ねる緊張の季節です。教会の暦はこの主日を喜びの主日とも呼びますが、その喜びは軽やかな楽観ではなく、闇を知る者だけが抱き得る深い光への期待です。私たちは今日、揺れる心を抱えたまま、この礼拝に集められています。

 福音書は、牢に囚われた洗礼者ヨハネの問いを伝えています。「来るべき方は、あなたですか。それとも、ほかの方を待つべきでしょうか。」かつて彼は荒れ野で大胆に悔い改めを叫び、来たるべき方を力強く指し示しました。そのヨハネが、いま疑問を差し出しているのです。主イエスは彼を責めません。しるしと業を示し、イザヤの預言を想起させながら、「見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」と応えます。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、貧しい人に福音が告げ知らされている。この応答は、権威の誇示ではなく、神の国がどのようなかたちで到来するのかを静かに指し示す証しです。

 旧約のイザヤ書もまた、荒れ野に花が咲き、弱った手が強められ、恐れる心に「雄々しくあれ」と語りかける幻を描きます。そこに描かれる救いは、勝者だけの祝祭ではありません。弱さを抱え、声を失い、道を見失った者が回復され、共に歩む道が備えられる希望です。ヤコブの手紙は、この希望を生き抜くために忍耐を勧めます。主の来臨は近い、だからこそ互いに不平を言わず、苦難の中でも心を確かにせよと語ります。忍耐とは、現実から目を逸らすことではなく、神の正義が必ず貫かれると信じて踏みとどまる、能動的な信仰の姿勢です。

 しかし私たちの現代は、待つことに耐えがたい時代です。即時の結果、即効性の解決が求められ、苦しみや貧しさは自己責任として切り捨てられがちです。社会の片隅で声を上げることさえ許されない人々がいます。戦争、分断、経済的不安、差別と排除。その現実の中で、私たちもまたヨハネのように問わずにはいられません。本当に神の国は来ているのか、公同の教会は福音の真理を生きているのか、と。主イエスは今日も同じ答えを示されます。苦しむ者の側に立ち、尊厳を回復し、沈黙を強いられた人に言葉を取り戻させるところに、神の国はすでに芽生えているのだと。

 降臨節第3主日は、私たちに選択を迫ります。確信なき問いを封じ込めるのか、それとも問いを携えたまま主の業を見つめるのか。疑いを持つことは信仰の失敗ではありません。むしろ、誠実に生きようとする者の避けがたい道です。主は、つまずかない者は幸いだと言われました。それは、強固な信念を持つ者への称賛ではなく、壊れやすい希望を手放さず、なお主に委ねる者への祝福です。

 この礼拝において、私たちは聖餐の恵みにあずかります。そこでは、完全な理解も揺るがぬ確信も求められません。ただ、渇きと空腹を覚える主の民が招かれ、共にパンを裂き、杯を分かち合います。待つことに疲れた私たちを、神は見捨てられません。荒れ野に道が備えられるという約束は、いまここで生き始めています。どうか私たちが、揺れる問いを抱いたまま、希望のしるしを互いに見いだし、忍耐と連帯をもって歩み続ける群れとされますように。主の来臨を待ち望みつつ、すでに与えられている光を、この世界のただ中で証しする者として遣わされていく、その恵みに応答したいと願います。

【教会暦】降臨節 第3主日 2025/12/14

教会時論 2025/12/13「監視国家への坂道を止めよ」---スパイ防止法という名で、民主社会の基盤が静かに削られようとしている。安全保障の名目で自由を差し出すことは、決して中立な選択ではない。--- 高市政権は2025年内の検討開始を掲...
13/12/2025

教会時論 2025/12/13「監視国家への坂道を止めよ」
---スパイ防止法という名で、民主社会の基盤が静かに削られようとしている。安全保障の名目で自由を差し出すことは、決して中立な選択ではない。---

 高市政権は2025年内の検討開始を掲げ、いわゆるスパイ防止法とインテリジェンス強化法制の制定を急いでいる。自民党と日本維新の会の連立合意に明記され、国民民主党、参政党も独自法案を国会に提出した。1985年の国家秘密法案が廃案となって以後、最も露骨なかたちで国家による監視と統制の拡張が構想されている。しかも、なぜ今、新法が不可欠なのか。その核心的根拠は示されていない。

 政府自身が2024年8月、「日本はスパイ天国ではない」との答弁書を閣議決定している。捜査関係者の間でも、現行法で対応可能との見解は根強い。すでに特定秘密保護法、経済安全保障関連法制があり、機密保全の網は張られている。それでもなお包括的な新法が必要だというなら、具体的に何が不足し、どの事例が未対処なのかを、国会と市民の前に明示するのが先である。これを欠いたままの立法は、民主的正統性を持たない。

 論点は三つに集約される。第一に、処罰対象と「外国勢力」の定義が拡張可能で、政府の恣意に委ねられる危険である。第二に、内閣情報調査室の格上げや対外情報庁創設など、情報機関の権限肥大に対する実効的な統制が見えないこと。第三に、この法制が排外主義と政権批判の抑圧を正当化する社会的空気を生み出す点だ。情報は両刃の剣である。イラク戦争が示したように、誤った情報や歪められた分析は、取り返しのつかない暴力を正当化する。

 推進側の最良の論拠は理解できる。厳しい安全保障環境の下で、情報収集と分析の質を高める必要があるという主張だ。しかし、必要なのは能力の向上であって、自由の切り売りではない。通信傍受や潜入、身分偽装が常態化し、第三者の監視が弱いまま権限だけが拡大すれば、被害を受けるのは無辜の市民である。反対者を「非国民」や「スパイ」と呼ぶ言説がすでに広がっている事実は、法の運用が社会に与える影響を雄弁に物語る。

 教会は、この動きを歴史の光に照らして判断する。治安維持法は当初、限定的な目的を掲げながら、やがて思想、学問、信仰、社会運動全般を抑え込む装置へと変質した。香港国家安全維持法も同じ道をたどった。権力は、監視の道具を一度手にすれば、必ず拡張する。人の尊厳は不可侵であり、良心の自由は国家に先立つ。恐怖を煽って沈黙を強いる政治は、正義ではない。

 求められるのは別の道だ。第一に、新法ありきの議論を止め、現行法の運用改善と限定的補強に立ち返ること。第二に、仮に情報機能を強化するなら、国会による厳格な常設監視と市民的統制を同時に法定すること。第三に、排外的言説を断固として退け、外交と信頼構築を含む総合的安全保障へ舵を切ることである。教会は沈黙しない。自由と真実を損なう法は、どれほど「安全」を名乗ろうとも拒まれるべきだ。

 政府と国会は、2025年の立法着手を直ちに停止し、根拠と代替案を公開の場で検証せよ。市民は、監視の拡張に慣らされることを拒み、声を上げ続けよ。教会は、弱い立場の人びとの不安と痛みに寄り添い、良心の自由を守るために行動せよ。いま止めなければ、この坂は戻れない。

「主は公正を愛し、貧しい者の訴えを退けられない。」
(詩編 140編13節)

監視国家への坂道を止めよ 「スパイ防止」を掲げて自由を削るなら、守るべき国の芯を折る。必要性と歯止めを示せない法案は、成立させてはならない。  2025年11月26日の党首討論で高市早苗首相は、参政党の神谷宗幣代.....

牧者雑記「政治を語らない聖職者に、どうしても違和感がある」 正直に言います。このご時世で政治をまったく語らない聖職者に、私はどうしても偽善を感じています。もちろん異論はあるでしょう。でも、今の社会状況を冷静に見れば、沈黙はもはや説明できませ...
08/12/2025

牧者雑記「政治を語らない聖職者に、どうしても違和感がある」

 正直に言います。このご時世で政治をまったく語らない聖職者に、私はどうしても偽善を感じています。もちろん異論はあるでしょう。でも、今の社会状況を冷静に見れば、沈黙はもはや説明できません。

 物価高、低賃金、医療や教育の負担増、生活保護水準の逼迫、非正規雇用の拡大…。これらは信徒の生活そのものです。つまり政治そのものです。教会の相談室に来る悩みの多くが、制度の歪みから生まれている現実を、聖職者が知らないはずがありません。それでも「政治的に誤解されるから」と口を閉ざす。これは慎重ではなく、ただの逃げではないでしょうか。

 聖書の世界では、権力の不正や社会の不条理に沈黙した預言者など一人もいません。イザヤも、アモスも、イエス自身も、政治の問題に正面から切り込んでいます。神の民の苦しみから目を逸らさないことが使命だったからです。その系譜に立つと言いながら、現代だけ「政治は語りません」は、どう考えても一貫性がありません。

 私は、特定政党を支援せよと言っているわけではありません。むしろ逆で、特定政党の利害を超えて、社会の構造的問題を語るべきだということです。弱者が切り捨てられ、労働環境が悪化し、家庭が潰され、子どもが将来を描けない社会で、聖職者が沈黙を選ぶ理由はありません。沈黙は中立ではありません。沈黙は現状追認です。

 教会が「政治は避けます」と言った瞬間、弱者の声は消えます。制度に押しつぶされている人々の現実を無視することになります。それを牧会とは呼べないと、私は思っています。

 この国の状況は、もう黙っていられる段階ではありません。聖職者こそ、語るべきときに語らなければならないのではないでしょうか。皆さんはどう感じますか。ここでの沈黙が、本当に正しい姿なのか。私はそうは思えません。

 正直に言います。このご時世で政治をまったく語らない聖職者に、私はどうしても偽善を感じています。もちろん異論はあるでしょう。でも、今の社会状況を冷静に見れば、沈黙はもはや説明できません。

降臨節第2主日 説教草稿「荒れ野に差し込むわずかな光を見逃さないために」【教会暦】降臨節第2主日 2025年12月7日【聖書日課】旧約 イザヤ書11:1-10使徒書 ローマの信徒への手紙15:4-13福音書 マタイによる福音書3:1-12【...
07/12/2025

降臨節第2主日 説教草稿「荒れ野に差し込むわずかな光を見逃さないために」

【教会暦】
降臨節第2主日 2025年12月7日

【聖書日課】
旧約 イザヤ書11:1-10
使徒書 ローマの信徒への手紙15:4-13
福音書 マタイによる福音書3:1-12

【本文】
 降臨節の歩みの中で、私たちは毎年「待つ」という営みの重さと、そこに宿る希望の力を学び直します。けれど、単に心静かに待つことだけが求められているのではありません。現実の荒れ野を直視し、そのただ中でなお灯り続ける小さな光を見いだすこと、それが降臨節の信仰の核心です。私たちの社会には、格差と孤立、暴力性の増幅、見えない形で人間の尊厳が削られてゆく構造が広がっています。どこか遠くの問題ではなく、私たちのすぐ隣にある痛みとして迫り、時に心を沈ませます。そんな季節に、主の民として何を聞き取り、どこに立つべきなのか。それを問うのが今日の主日です。

 イザヤ書11章は、荒廃し切ったイスラエルに、不思議な救いの萌芽が訪れるという大胆な幻を描きます。切り株と化したエッサイの根から、なお若枝が生えるという表現は、ほとんど絶望の土壌から芽吹く命のしるしを指しています。やがてその上に主の霊がとどまり、弱きを守り、貧しい者の訴えに耳を傾け、暴力を断ち切る裁きを行われる方が現れると語ります。これは単なる未来像でも、古代の王の理想化でもありません。神の正義が、力と富をもたぬ者の側から世界を作り変えるという、福音の核心そのものです。この幻に私たちが心動かされるのは、そこに神ご自身のまなざしがあるからです。繁栄でも権力でもなく、壊れやすく声を上げにくい命の側にこそ、主は最初に立たれる。この事実が、信仰の平安と闘いの双方を私たちに与えます。

 マタイ福音書3章は、荒れ野で叫ぶバプテスマのヨハネの姿を伝えます。彼は贅沢や制度の中心から最も遠い場所で、悔い改めの洗礼を呼びかけました。ヨハネが語った「天の国は近づいた」という宣言は、単に心の内面に起こる霊的変化を促したのではなく、社会の不正義に静かに加担してきた生き方を改め、正義のために立ち直る決断を迫るものでした。しかもヨハネは、形だけの宗教的敬虔さを激しく退け、真実の実りを求めました。信仰とは、互いに背負い合い、痛む隣人に応える行動へと向かうものであり、他者を裁く口先の道具では決してない。この厳しさは、しかし深い慈しみから生まれています。神が人を諦めないからこそ、人が変わり得るという希望の言葉でもあるのです。

 そして使徒パウロが語るのは、慰めと励ましを与える聖書の言葉をとおして、私たちが希望に満たされることです。降臨節の希望とは、現実の厳しさから逃げるための幻想ではありません。むしろ世界の痛みに目をそらさず、弱き者と共に立ち、互いの重荷を担い合う働きの中で静かに形づくられる確かな光です。パウロは、異なる背景を持つ者どうしが互いに受け入れ合い、キリストが私たちを受け入れてくださったように歩むよう呼びかけています。公同の教会は、本来そうした包摂の共同体として立てられています。そこに分断や差別が入り込み、誰かが排除されるのだとすれば、それは主の民のあり方から大きく外れてしまいます。

 今日、私たちの社会には、声を上げることすらできない人々がいます。貧困と孤立、偏見や攻撃にさらされる人々、家族や職場でぎりぎりの心を抱えている人たち。降臨節の主の到来は、そうした人々のもとにまず向かう光であり、教会はその光が届く道を共に切り開くために存在しています。教会が街の片隅へ出ていき、苦境にある人の手を取り、制度や政治の働きかけに力を合わせることは、単なる社会活動ではありません。イザヤが示す神の正義そのものを、この世界に証しする聖なる務めです。

 私たち自身の内にも荒れ野があります。焦りや疲労、無力感が心を乾かすことがあります。その荒れ野にも、主は「若枝」を生やされる方です。どれほど小さな芽であっても、そこに神の霊が宿るなら、命は必ず伸びていく。そのことを信じ、互いのうちに芽吹く可能性を丁寧に育て合いましょう。主の民は、ただ慰められる者ではありません。慰める者として遣わされる共同体です。

 降臨節第2主日のこの朝、主は私たちに問いかけます。あなたはどこに立ち、誰の声に耳を傾けるのか。あなたの歩みは、弱き者のための福音の真理を、ほんのわずかでもこの世界にしるしとして示しているか。今日の礼拝から私たちが持ち帰るべきは、厳しい反省ではなく、新たな可能性への応答です。主イエスは、私たちが恐れに閉ざされるのではなく、希望に押し出されるようにと招いておられます。

 どうかこの降臨節、荒れ野に差し込む小さな光を見逃さず、その光を携えて街へ出ていく教会となりましょう。私たち一人ひとりが、主の平和を運ぶ器とされるよう祈り求めつつ、共に歩んでまいりましょう。

【教会暦】降臨節第2主日 2025年12月7日

教会時論 2025/12/6「伝統の名を借りた排除を拒む」---産経新聞(2025/12/4)社説「『同性婚』認めず 理にかなう妥当な判決だ」への反論である。本件高裁判決を「理にかなう」と持ち上げる論法は、法の下の平等を矮小化し、国家が特定...
06/12/2025

教会時論 2025/12/6「伝統の名を借りた排除を拒む」
---産経新聞(2025/12/4)社説「『同性婚』認めず 理にかなう妥当な判決だ」への反論である。本件高裁判決を「理にかなう」と持ち上げる論法は、法の下の平等を矮小化し、国家が特定の家族像を押しつける危うさを看過している。憲法解釈を誤る声に、教会として明確に異議を唱える。---

 東京高裁は2025年12月4日、同性婚を認めない現行民法・戸籍法を「合憲」とし、原告8人の請求を退けた。判決は憲法24条1項の「両性」を、制定時の慣習に依拠して異性間婚の限定規定と読んだ。その瞬間、傍聴席の空気は重く沈んだ。高裁前に立った原告の一人は、報道陣に向かい「私たちは存在を否定された」と絞り出した。これが今の日本の司法の現実である。産経新聞はこの判決を「歴史的、伝統的婚姻を踏まえた妥当な判断」と称えた。しかし、歴史を理由に人の尊厳を後景に退ける姿勢こそ、社会の根幹を揺るがす。いま問われているのは、同性婚の是非ではない。国家が「正しい家族像」を定め、そこから外れる者を排除し続けてよいのかという、人権の根本である。

 まず事実を確認する。全国の高裁で続いてきた同性婚訴訟の控訴審は、これまで6件中5件が「違憲」あるいは「違憲状態」と判断してきた。その根拠は、同性カップルが法制度上の保護から排除され、生命に関わる同意手続・相続・税制・医療アクセスなど、生活の基盤がおびやかされている点である。多数の裁判体が一致して見るのは、現行制度が具体的損害を生み、憲法14条の平等原則に反するという事実だ。一方、産経社説は「歴史」「伝統」を繰り返し、個々の当事者に降りかかる損害について一切語らない。これは議論の核心を回避している。さらに同紙は「制定当時、同性婚を想定していなかった」と述べ、条文の解釈変更を否定する。しかし、憲法の保障は未来世代へ開かれ、時代とともに読み替えが不可避である。選挙権年齢、身体の不可侵、配偶者暴力の概念 — いずれも制定時には想定されておらず、憲法解釈の進化によって権利が確立した。憲法前文の「子孫のために」を、出生能力との結びつきに限定するのも誤りである。家族の形は生物学のみに回収され得ない。この単線的な論法は、子を持たない異性夫婦や不妊治療の現実すら視野に収めていない。

 教会はここで基準を明確にする。人の尊厳は生殖能力に由来しない。愛し合う二人が互いを支え、共同生活を築く自由は、万人に保障されるべき普遍の権利である。産経社説は「国民の家族観に関わる」と警告するが、家族とは国家が定義する制度ではなく、まず当事者の痛みと希望の場だ。判決が示した「同性婚は一つの家族の姿として承認されている」という認識こそ、社会の現実である。これを制度が追認しない限り、不平等は固定され続ける。誤りが生じているのは、①憲法24条を歴史的慣習に閉じ込めて動かさない硬直、②平等権の侵害を「伝統」の名で正当化する政治的言説、③司法が立法の遅延を放置し、弱い立場の人に損害を負わせ続ける構造の三点である。代替案は明確だ。立法府は期限を切って婚姻平等法の審議に入るべきであり、行政は自治体パートナーシップ制度を国水準に統合し、司法は個別具体的損害への救済を重視する判断枠組へ移行すればよい。この連続的な改革を選ばない限り、日本は人権保障において国際水準から後退し続ける。

 ゆえに結論として命じる。国会は2026年会期中に婚姻平等の法案を提出し、審議と採決を完了せよ。行政は当事者の生活を守る暫定措置を直ちに講じ、読者は身近な偏見に沈黙せず、良心に従って声を上げよ。教会は祈りを行動と結び、排除されてきた隣人と共に立つ責務を負う。

「正義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むこと」(ミカ書6章8節)

伝統の名を借りた排除を拒む 産経新聞(2025/12/4)社説「『同性婚』認めず — 理にかなう妥当な判決だ」への反論である。本件高裁判決を「理にかなう」と持ち上げる論法は、法の下の平等を矮小化し、国家が特定の家族像...

牧者雑記「アドベントに問われる — 教会と聖職の“身を切る覚悟”」 アドベントを迎えましたね。主の到来を待ち望む季節に、私たちは毎年「闇の中の光」「貧しい飼い葉桶にお生まれになったキリスト」を語ります。でも正直に言って、私たちの教会の現実は...
02/12/2025

牧者雑記「アドベントに問われる — 教会と聖職の“身を切る覚悟”」

 アドベントを迎えましたね。主の到来を待ち望む季節に、私たちは毎年「闇の中の光」「貧しい飼い葉桶にお生まれになったキリスト」を語ります。でも正直に言って、私たちの教会の現実は、その言葉とどこまでつながっているでしょうか。

 いまの日本社会で、いちばんアドベントを切実に待っているのは誰か。物価高で生活保護ギリギリ、あるいはその下で生きている人たち、家族の介護で心身がすり減っている人たち、非正規でいつクビになるか分からない若い世代ではないでしょうか。そういう人たちの隣に、教会と聖職は本気で立っていると言えるのか。これはきれいごとではなく、生活のレベルの話です。

 イエスは、神のかたちであられる方なのに、そのあり方に固執せず、ご自分を無にして来られました(フィリピ2章)。生まれた場所は宮殿ではなく、家畜小屋。これは「清く、貧しく」が美しいスローガンだからではなく、そこにしか届かない人々がいたからです。教会が「中流以上の人のための安全地帯」になっているとしたら、それはキリストの方向と真逆です。

 ですから、私ははっきり言いたいのです。教会と聖職の在り方は、もっと徹底的に「身を切る改革」が必要だと。建物を維持することより、人のいのちと尊厳を守る方を優先させること。教会活動も、会館の中で完結させず、街中に出ていくこと。財政も同じです。聖職の報酬は、少なくとも「生活保護レベル」を上限の目安とすべきだと本気で考えています。

 もちろん、どこの教会も財政的には厳しいのは分かっています。だからこそ「もうこれ以上は無理だ」と言いやすい。でも、それでもなお一歩踏み込んで、自分たちの安全圏を削り、社会的弱者と同じ目線に立つ覚悟があるかどうかが問われているのではないでしょうか。

 私は、自分自身、そのレベルで生きることを原則として実践しています。自慢でも、美談でもありません。ただ、説教台から「貧しい人と共に」と語る以上、自分の生活もそこから逃げるわけにはいかないと思うからです。聖職者がまず身を削らないで、「社会のために」「弱者のために」と言っても、言葉が軽くならないでしょうか。

 ルカ4章でイエスは、「貧しい人に福音を告げ知らせるために」来られたと宣言しました。アドベントにその御言葉を朗読しながら、自分たちの生活レベルだけは守り抜くとしたら、それはもう信仰ではなく、宗教サービス業です。皆さん、そうは思いませんか。

 清く、貧しく。これはロマンチックな理想ではなく、具体的な家計、給与、予算の組み替えの話です。そこに手をつけないまま、「教会改革」や「伝道戦略」を語っても、中身は空洞のままかもしれません。このアドベント、私たちの教会と聖職が、本気でどこまで貧しさを引き受ける覚悟があるのか。答えは、それぞれの財布と生活の中に、はっきり表れてしまうはずです。(俊)

アドベントを迎えましたね。主の到来を待ち望む季節に、私たちは毎年「闇の中の光」「貧しい飼い葉桶にお生まれになったキリスト」を語ります。でも正直に言って、私たちの教会の現実は、その言葉とどこまでつながっ...

降臨節第1主日 説教草稿「希望は暗闇のただ中で灯る」【教会暦】降臨節第1主日 2025年11月30日【聖書日課】旧約 イザヤ書 2:1-5使徒書 ローマの信徒への手紙 13:8-14福音書 マタイによる福音書 24:37-44【本 文】 降...
29/11/2025

降臨節第1主日 説教草稿「希望は暗闇のただ中で灯る」

【教会暦】
降臨節第1主日 2025年11月30日

【聖書日課】
旧約 イザヤ書 2:1-5
使徒書 ローマの信徒への手紙 13:8-14
福音書 マタイによる福音書 24:37-44

【本 文】
 降臨節の第一主日を迎えるたび、教会の空気がすっと引き締まるのを覚える。それは過ぎ去った1年の重荷と喧噪を静かにほどき、主の到来を待ち望む新しい息づかいに包まれるからだ。祭壇のそばに置かれた4本のろうそくのうち、今朝は1本目に火がともされた。小さな炎だが、その名はHOPE、すなわち「希望」。暗闇を押し返す光の始まりである。世界がここまで不安定になった年の終わりに、この小さな灯火がどれほどの重みを持つか、私たちは身をもって知っている。戦争の拡大、社会の分断、憎悪の言葉がSNSで渦巻き、政治は迷走し、人々の心は疲れ切っている。そんな時代のただ中で、教会だけがのんびりと「降臨節の始まりです」と告げているのではない。むしろ、この時代だからこそ、最初の光が必要なのだと思う。

 イザヤ書は、民族同士が武力で争い続けた時代に語られた幻を記す。「彼らはその剣を打ち直して鋤とし、その槍を打ち直して鎌とし…国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。たとえようもなく大胆で、しかし深く現実を知る預言だ。イザヤは戦争を否定するだけではない。武器そのものが命を育てる農具へと変えられるという、徹底した平和のヴィジョンを示す。今日の世界で私たちの耳は、その言葉をあまりにも切実に受け取る。社会は恐れによって左右されやすくなり、人々は「敵」を想定して心を守ろうとする。だが、イザヤの預言は私たちを別の道へ導く。平和は単なる停戦や力の均衡ではなく、剣そのものを鋤に変える創造的な働き、神の国の光に向かって歩き出すことだと告げている。

 使徒パウロはローマの信徒に向け、「互いに愛し合うことのほかに、誰に対しても借りはあってはなりません」と語る。愛は律法を満たす、とパウロは言い切る。その愛は抽象的な情緒ではなく、隣人の苦しみを放置しない責任の形だ。さらにパウロは、「今は眠りから覚める時だ」と警告する。夜は深まり、日は近づいている。光の武具を身にまとい、闇の業を脱ぎ捨てよ、と迫る。降臨節が、ただ牧歌的な雰囲気ではなく、鋭い目覚めの呼びかけである理由がここにある。私たち自身の中にも、疲れやあきらめによって闇が広がる時がある。社会の不安や不正義に対し、「仕方がない」と目をそらしてしまう誘惑もある。けれども降臨節は、主の光がすでに近いことを思い起こさせ、私たちを立ち上がらせる。

 マタイ福音書は、「人の子が来るのは、ノアの日のようである」と語る。人々が日常の営みに没頭し、神の呼びかけに気づかぬまま滅びへ向かったノアの時代。そこには突然の裁きという恐怖ではなく、人間の鈍さと無関心が描かれている。だからこそ、主イエスは「目を覚ましていなさい」と告げる。待降節は、単なる歴史的記念ではなく、今この瞬間に主が訪れる可能性へ心を開く季節だ。世界がどれほど不安であっても、神の現れは人間の想定を超えた仕方でやって来る。私たちは「神が不在のように見える時代」に生きているが、だからこそ、神の到来を期待するという信仰の姿勢が問われている。

 第一のろうそくHOPEが象徴するのは、根拠のない楽観ではない。むしろ、現実の暗闇を直視する勇気である。希望とは、問題を軽視することではなく、その問題の中心へと踏み込み、そこに神の光を見出す意志だ。戦争の報せが尽きず、社会の分断が広がり、人々の言葉が荒れ、未来を語る声が弱くなった今、教会は小さな炎を掲げる。それは「世界の闇は深い。それでも光は消えない」と宣言する行為だ。降臨節は、消えかけた希望を呼び戻す神の働きの季節であり、私たち自身がその光を受け取り、他者へと分かち合う時でもある。

 主の民である私たちは、この小さなHOPEの光に照らされながら、新しく歩み出すよう招かれている。イザヤが語った平和の山へ向かい、パウロが呼びかけた目覚めの生活へ踏み出し、イエスが求めた「気づき」の姿勢を日常に根づかせること。それはただ個人的な信仰生活ではなく、社会の中で平和と正義を求める共同の実践につながる。憎しみの言葉を減らし、弱い立場の隣人に寄り添い、不正に沈黙しない勇気を持つこと。こうした小さな行為こそ、ろうそく1本分の光が世界を変えていく具体的なかたちである。

 降臨節の始まりにあたり、私たちは主の到来を待ち望みながら、同時にその光を担う者として歩む。暗闇が深まるほど、希望の炎は鮮やかになる。どうか私たちが、この小さな光をしっかりと守り、分かち合い、世界の平和のために用いることができるよう、祈りつつ歩もう。主のまことの光が、私たちの心と共同体と世界に満ちるように。アーメン。

【教会暦】降臨節第1主日 2025年11月30日

教会時論 2025/11/29「立法裁量に隠れた司法の退行」---東京高裁は同性婚を認めない法制度を「合憲」とし、国会の裁量を理由に現実の苦痛を直視しなかった。人の尊厳にかかわる争点で司法が沈黙すれば、三権分立は空洞化する。--- 11月2...
29/11/2025

教会時論 2025/11/29「立法裁量に隠れた司法の退行」
---東京高裁は同性婚を認めない法制度を「合憲」とし、国会の裁量を理由に現実の苦痛を直視しなかった。人の尊厳にかかわる争点で司法が沈黙すれば、三権分立は空洞化する。---

 11月28日、東京高裁民事8部は、同性婚を認めない民法・戸籍法を「合憲」と判断した。6件の高裁判決のうち唯一の合憲判断であり、札幌・東京(別部)・名古屋・大阪・福岡の各高裁が「違憲」または「違憲状態」と明言してきた流れに逆行した。判決文は、婚姻届が不受理となり続けている原告カップルの8年に及ぶ生活の不安定さを触れながらも、「国会が検討を重ねるべき事柄で、司法の関与は抑制的であるべきだ」と述べて結論を回避した。法廷の外では、SNS上で性的少数者への罵倒が飛び交う光景が続く。そこに漂う空気が、今回の判断にどれほど影を落としたか。判決の文言を読むほど、現実の痛みへの感度の鈍さが際立つ。

 背景には三つの争点がある。第一に憲法24条の解釈である。他高裁が「両性」は“個人の尊厳にもとづく結婚を営む者同士”を示す語であり、同性カップル排除の根拠とならないと整理したのに対し、東京高裁は24条を“異性婚を前提とする制度規定”と狭く読んだ。第二に、14条の平等原則の扱いである。原告側が提出した、相続・医療同意・税制・親権・社会保障など計30領域超に及ぶ不利益資料を、判決は「制度全体としての調整が国会に委ねられる」として深掘りしなかった。第三に、国際的潮流の受容だ。OECD38カ国中、同性婚を認めていないのは日本・韓国・トルコのみである。欧州人権裁判所は“性的指向を理由とする差別を最も厳格に審査すべき領域”と繰り返し判示してきたが、東京高裁は「各国事情の差異」を理由に判断要素から事実上外した。判決は一見整然としているが、細部を辿ると、痛みを抱える人々の実際の生活を“制度の外”へ押し戻す力学が露骨に働いている。

 教会はこの場面で判断基準を曖昧にしない。人の尊厳は制度の都合より優先する。少数者への不利益が明白であり、その解消に長期間の遅滞が続く場合、「国会の立法裁量」は万能の免罪符にはならない。司法が「動かない立法府」を理由に憲法判断を回避するなら、立法の不作為による権利侵害は永続する。今回の判決はまさにその危険を現実化させた。裁判所の最良の反論は「多様な利害調整を要する以上、国会の議論を尊重すべきだ」というものだろう。しかし、婚姻制度によって生じる不利益は個人の生命・住居・緊急医療・相続といった基礎的領域に直結し、日々の生活の現場で深刻な痛みを生んでいる。これを「制度全体の調整待ち」とするのは、救済の必要性を見誤る。司法は、少なくとも“違憲状態”の確認と“速やかな立法措置”の明示という最小限の役割を負っている。国会の裁量と司法の抑制という常套句の裏で、救われるべき人の声を沈めることは許されない。制度の安定ではなく、痛みを抱える者の尊厳こそ守られるべきである。

 国会は速やかに同性婚を可能とする法改正に着手し、内閣は期限を区切った法案提出を行い、司法は今後の審級で人の尊厳に沿った判断を示すべきだ。

 「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネ福音書1章5節)

立法裁量に隠れた司法の退行 東京高裁は同性婚を認めない法制度を「合憲」とし、国会の裁量を理由に現実の苦痛を直視しなかった。人の尊厳にかかわる争点で司法が沈黙すれば、三権分立は空洞化する。   11月28日、東...

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