企救バプテスト教会

企救バプテスト教会 2012年12月念願の新会堂が完成しました 教会聖句
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について感謝しなさい。
  テサロニケ人への第一の手紙
    第5章16~18節

2026年5月17日 5月第3主日礼拝「美しの門」• さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ば...
28/05/2026

2026年5月17日 5月第3主日礼拝
「美しの門」
• さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
• 8:使徒行伝/ 03章 08節
踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
• 9:使徒行伝/ 03章 09節
民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、
• 10:使徒行伝/ 03章 10節
これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。(使徒行伝第3章1~10節)

この場面でいくつかの言葉に注目して命の言葉を辿りたいと思います。
一つ目、「見る」

彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。

ここのはいって行こうとしているのを見て、の「見て」新約聖書で300回以上

ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。

このじっと見るは14回。

民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、

ここの賛美しているのを見、
新約聖書で130回くらい、よく出る言葉です。
いろんな「見る」があります。
私たちは何を見、じっと見ているでしょうか?
もうひとつ、 時に関する言葉がいくつかあります。
午後三時という時があります。これはちょっと置いておきたいと思います。
次に祈のとき、これも大切なとき。
そして「生れながら」直訳すると、母の胎から、生まれる前から。
その人にとって足のなえている生き方は何年でしょうか?
20年?30年?40年?彼にとって足がきかない時があります。
この人に関して、どんな思いで過ごしていたのでしょうか?
そして「毎日」とういときが記されています。
この男の人に人生に変化が訪れます。
毎日毎日嫌になっちゃうよの毎日、何十年?それはわからないけれど。
時がかわる場面。

ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。

足のきかない毎日が、今日変わっていく、そんな時を迎えています。

こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、

「強くなって」強くなる、新約聖書で3回、使徒行伝しかない言葉、特別な時があります。
足とくるぶしが強くなった。新約聖書でここにしかない、彼に関してのみ使われています。

そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、
「踊ったり」新約聖書でここにしかない特別な時があります。

• ところが、ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。
• 9:使徒行伝/ 14章 09節
この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、
• 10:使徒行伝/ 14章 10節
大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。(使徒行伝第14章8~10節)

今日の場面にそっくりな場面があります。
それぞれに人生が大きく変化しているときがあります。
ああ、この二人、いいなあ、踊れる人生があっていいなと思う私がいるかもしれません。
私たちは愚痴をこぼすのをやめて聖書を開いてみたいと思います。

• イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。(ヨハネによる福音書第4章13~14節)

ここでの「わきあがる」が「踊りあがる」と同じ言葉です。
わたしたちにも踊りあがる水の約束があります。
踊りあがるであろう約束が与えられています。
生まれながらの毎日に変化が現れたとき

これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。

ここの驚きは新約聖書で3回だけ。怪しむが7回。
なにより毎日毎日嫌になっちゃうよが、さんびに変わっています。
私たちは命の水がわきあがるときにまねかれています。
午後三時、皆さんにとってどんな時でしょうか?
いろんな午後三時があるけれど、ここでは祈のとき。
まだ教会はととのっで整っていない、神殿で祈る午後三時。
もう一回午後三時が出てきます。

• さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。ある日の午後三時ごろ、神の使が彼のところにきて、「コルネリオよ」と呼ぶのを、幻ではっきり見た。彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」。このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。(使徒行伝第10章1~8節)

ここにも午後3時があります。神殿ではなく家の中だけど。
改めて午後三時、ルカにとって特別な時間。
ルカだけでなく、マタイもマルコも大切にしている午後3時があります。

• 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。(ルカによる福音書第23章44~49節)
もう一つの午後三時があります。「見る」も繰り返し出てきます。
私たち午後三時、何を見るのでしょう。
イエス様の十字架を見る午後三時。
私たちの歌が毎日毎日嫌になっちゃうよの泳ぐたいやきくんではなく、賛美歌を歌う午後三時に変わっていきます。
そんな午後三時を思いながら、でもいやになっちゃうよが続いているでしょうか?
そしてもう一つの言葉、「美しの門」
辞書を開くとぴったりの言葉がないけれど、ギリシャ語では「時にかなった門にて」
午後三時は彼にとって時にかなった門にて、その時を迎えるまで20年?30年?
私たちも時にかなった門に座ってその時を待ちます。
時にかなった…

神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(伝道の書第3章11節)

神のなされることは皆その時にかなって美しい。
私たちは時にかなった門にて、いやになっちゃうよが讃美にかわる、時にかなった神様の御業を見てその時を待つことが与えられていることに感謝します。

2026年㋄10日 ㋄第2主日礼拝「神の大きな働きを述べる言葉」五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎...
22/05/2026

2026年㋄10日 ㋄第2主日礼拝
「神の大きな働きを述べる言葉」
五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、この物音に大ぜいの人が集まってきて、彼らの生れ故郷の国語で、使徒たちが話しているのを、だれもかれも聞いてあっけに取られた。そして驚き怪しんで言った、「見よ、いま話しているこの人たちは、皆ガリラヤ人ではないか。それだのに、わたしたちがそれぞれ、生れ故郷の国語を彼らから聞かされるとは、いったい、どうしたことか。わたしたちの中には、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人もおれば、メソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者もいるし、またローマ人で旅にきている者、ユダヤ人と改宗者、クレテ人とアラビヤ人もいるのだが、あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。
みんなの者は驚き惑って、互に言い合った、「これは、いったい、どういうわけなのだろう」。しかし、ほかの人たちはあざ笑って、「あの人たちは新しい酒で酔っているのだ」と言った。(使徒行伝第2章1~13節)
ここで風が吹いています。
五旬節という言葉があります。これは聖書の過越しの祭りから50日という、年によって色々違いますが、今年の五旬節は㋄24日、まさに5月の風を感じることろだけれど、話はちょっと微妙、

突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。

激しい風が吹いてきたような音、
ような音。風が吹いたのはどうかは微妙な言葉遣いになっています。
ちなみに「激しい」と訳されているこの言葉、新約聖書でここにしかない言葉。
ということでなかなかの凄い音がしたんだなというところになると思いますが、ちなみにこの「風」という言葉も新約聖書で、使徒行伝であと1回しかでてこないそんなものです。
風邪が吹いたかどうかはわからないけれど激しい、すごい音がしたということです。
音という言葉に注目するとここにある「音」と訳されている言葉も新約で4回しか出てこない言葉、ちょっと珍しい言葉。他のところでは轟(とどろき)、響きと訳される言葉です。
音がすごかった、みんあが圧待ってきたという場面です。激しい風が吹いたかどうかは微妙なこととして、確かにここに風は吹いています。
それはどれかというと「聖霊」「御霊」、この霊というこれには「風」という意味もあります。激しい風は微妙だけれど「霊」は確かに吹いてる、そんなことをおぼえることが出来る場面です。そんな中でここではもうひとつ、「ような」という言葉があります。

また、舌のようなものが、
炎のように分れて現れ、
ひとりびとりの上にとどまった。
ようなようなが続いて一体なにがあったのかな?そんなことが気になる所ですが
舌のようなものが、
炎のように分れて現れ、
もともとの言葉で訳すと、炎のような舌が現れた。
舌のようなではなく、舌は現れました。
実はこの「舌」東医言葉が今日の場面の大切なひとつのキーワードになっています。
「舌」という言葉が新約聖書でなんども出てくる特にめずらしい言葉ではないけれど実は「舌」ではなく別の日本語で訳されていることが多くてギリシャ語ではグローツサ、今日の聖書の場面でここ以外に2回別の日本語で出てきています。
その一つが

すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。

ここで「言葉」と訳されている言葉が「舌」と訳されている言葉と同じ言葉です。
とういことで繋げて訳すと

すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の舌で語り出した。
舌で語り出した。そんな表現になっています。
もうひとつ、今日の聖書にあるのが

あの人々がわたしたちの国語で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

こちらでは「国語」と訳されているのがグローサ、舌です。

あの人々がわたしたちの舌で、神の大きな働きを述べるのを聞くとは、どうしたことか」。

「舌」という言葉がここで3回出てきています。
今日の宣教の題「神の大きな働きを述べる言葉」を言い換えると「神の大きな働きを述べる舌」ということになります。
今日の聖書の場面で3回「舌」が出てきますが、実はこのあとも「舌」が繰り返されています。
他にも「国語」が出てしますが、違う言葉がつかわれています。
今辿っている「舌」という言葉に注目しながら変わることないいのちの言葉を聞いていきたいと思います。

ちなみに今日の聖書のあと、あのペテロが大胆に語っていく、そんな場面があるけれど、そこでペテロが旧約聖書をいろいろ引用しながらイエス様のことを語っていることがつづくのですが、また「舌」があるので確認したいと思います。

• ダビデはイエスについてこう言っている、/『わたしは常に目の前に主を見た。主は、わたしが動かされないため、/わたしの右にいて下さるからである。それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。あなたは、わたしの魂を黄泉に捨ておくことをせず、/あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない/であろう。あなたは、いのちの道をわたしに示し、/み前にあって、わたしを喜びで満たして下さるであろう』。(使徒行伝第2章25~28節)

ここに今日こだわっている「舌」があります。
わたしの舌はよろこび歌った。
の舌はよろこび歌う舌になっています。
よろこび歌う舌、これはとってもすてきなことだけれど、二枚舌と言われる言葉が新約で1回出てきます。そのはなしは置いといて話を元に戻します。
「神の大きな働きを述べる舌」それを与えられたのが今日の聖書の出来事、そんなふうに今日の聖書を読んでいきたいと思います。
「舌」は特別ではなく私たちの日常にあるものだけれど、ペテロの言葉にあったように
それゆえ、わたしの心は楽しみ、/わたしの舌はよろこび歌った。わたしの肉体もまた、望みに生きるであろう。
私たちはよろこび歌う舌を与えられています。
今日、もう一つ考えてみたい。
それは「神の大きな働き」はなんだろうかな?
私たちは「「神の大きな働きを述べる舌」を与えられたんだということが今日の場面。「神の大きな働き」とは、何を思われますか?
実はここで「神の大きな働き」と訳されているこの言葉は新約聖書ではここにしかないそんな言葉です。
ちなみに、後にある「あざ笑う」とか「新しい酒」とか「酔ってる」も新約聖書でここにしかない言葉だけれどなによりこの「神の大きな働き」それは一体、何なのかな?
色々なことを考えることができると思います。皆さんにとっての神様の大きな働きとは、ごんな経験を人生の中で、神様の大きな働きがあった、そんな経験、それぞれにあると思いますが今日はこのことについてこんな風に考えてみたいと思います。
今日、神様の働きとして考えたいのは、神様その約束を果たされる方である。といこと。
大きな働きとは約束の実現、そんなふうに考えてみたい。
神様の大きな働き、別な言い方をすると、神様は有言実行の方だと言う事と考えて、今日はそれを変わることないいのちの言葉として心にとめていきたいと思います。
神様は有言実行の方、それでここに記されている「聖霊が与えられた」というのは今日の場面、これがまさに約束されたことの実現になっています。それはイエス様の言葉として、語られていたところですが、」また、使徒行伝と同じく福音書を書いたルカの言葉で確認してみたいと思います。

• それから彼らに対して言われた、「わたしが以前あなたがたと一緒にいた時分に話して聞かせた言葉は、こうであった。すなわち、モーセの律法と預言書と詩篇とに、わたしについて書いてあることは、必ずことごとく成就する」。そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらの事の証人である。見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。(ルカによる福音書第24章44~49節)
これが実行されたのが今日の場面です。
この言葉が実現した、有言実行、まさにこのことが今日の場面になっています。
今読んだところでイエス様ご自身が神様の言葉の有言実行者なんだということです。
神様が言われたことを実現したのがイエスという存在なんだということが、今のところで語られています。
有言実行の神、旧約聖書で語られていたことがイエス様によって実現している、そんな有言実行があります。今日の聖書に続いて、あのペテロが語っているのがまさにそのことです。そしてもうひとつの有言実行、確認してみたいと思います。
ペテロが語っているところでもう一つの有言実行を確認してみたいと思います。
今日の場面のすぐ後の場面であのペテロが堂々と語っています。

• 今は朝の九時であるから、この人たちは、あなたがたが思っているように、酒に酔っているのではない。
• 16:使徒行伝/ 02章 16節
そうではなく、これは預言者ヨエルが預言していたことに外ならないのである。(使徒行伝第2章15~16節)
旧約聖書のヨエル書のことをこのあと語っています。
ヨエル書を開いてみたいと思います。

• その後わたしはわが霊を/すべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、/あなたがたの老人たちは夢を見、/あなたがたの若者たちは幻を見る。その日わたしはまた/わが霊をしもべ、はしために注ぐ。(ヨエル書第2章28~29節)

このヨエル書の言葉が実現したのが今日なんだとペテロが語っているところに、今日の使徒行伝の出来事がまさに神様の有言実行がここにあるんだ、神様は言われたことを必ず実現して下さるかたなんだ。イエス様の言葉も有言実行の現れがありました。そして旧約聖書の言葉も有言実行として今日の場面にあります。
神様の大きな働き、いろんな働きを私たちは思い浮かべるけれど、今日はひとつ
こだわって、神様の働きとは有言実行なんだということです。そこでまたひとつも言葉に注目して、神様も言葉を有言実行した人のことを考えてみたいと思います。そこで注目したいのが今日の聖書の

さて、エルサレムには、天下のあらゆる国々から、信仰深いユダヤ人たちがきて住んでいたが、

ここにある「信仰深い」と訳されているその言葉。実はこの言葉、使徒行伝ではあと2回、それしルカによる福音書で1回しか出てこない、聖書で4回しか出てこない「信仰深い」という言葉、改めてルカによる福音書にこの信仰深い人がいます。
その場面で神様の言葉を有言実行いした人を見てみたいと思います。

• それから、モーセの律法による彼らのきよめの期間が過ぎたとき、両親は幼な子を連れてエルサレムへ上った。それは主の律法に「母の胎を初めて開く男の子はみな、主に聖別された者と、となえられねばならない」と書いてあるとおり、幼な子を主にささげるためであり、また同じ主の律法に、「山ばと一つがい、または、家ばとのひな二羽」と定めてあるのに従って、犠牲をささげるためであった。その時、エルサレムにシメオンという名の人がいた。この人は正しい信仰深い人で、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいた。また聖霊が彼に宿っていた。そして主のつかわす救主に会うまでは死ぬことはないと、聖霊の示しを受けていた。この人が御霊に感じて宮にはいった。すると律法に定めてあることを行うため、両親もその子イエスを連れてはいってきたので、シメオンは幼な子を腕に抱き、神をほめたたえて言った、「主よ、今こそ、あなたはみ言葉のとおりに/この僕を安らかに去らせてくださいます、わたしの目が今あなたの救を見たのですから。この救はあなたが万民のまえにお備えになったもので、異邦人を照す啓示の光、/み民イスラエルの栄光であります」。父と母とは幼な子についてこのように語られたことを、不思議に思った。するとシメオンは彼らを祝し、そして母マリヤに言った、「ごらんなさい、この幼な子は、イスラエルの多くの人を倒れさせたり立ちあがらせたりするために、また反対を受けるしるしとして、定められています。――そして、あなた自身もつるぎで胸を刺し貫かれるでしょう。――それは多くの人の心にある思いが、現れるようになるためです」。(ルカによる福音書第2章22~35節)

ここにいるのが、神様の有言実行を経験したシメオン、「あなたは救い主にあうまでは死なない」神様の約束、「あなたは救い主に会えるよ」そしてシメオンはまさに神様の有言実行によってイエス様に出会っているということです。
ここにいるシメオン、まさに神様による有言実行を経験した人ですけれど、ここには「舌」という言葉はないけれどシメオンもまたよろこび歌う舌を与えられたひとりとして賛美をしています。神をほめたたえているシメオンの舌はまさに今日の「舌」。
私たちはまた、そんなふうに神様の有言実行を経験しているでしょうか?
シメオンは救い主に会うという言葉の実現を幼な子イエス様に出会って賛美の下を使っています。改めて神様は私たちにどんなことを約束して下さっているでしょうか?お一人お一人神様の約束の言葉、何が実現されるのでしょうか?
変な言葉をつかえば、神様は二枚舌ではありません。有言実行の方です。
皆様にとって具体的な神様の言葉の実現があると思いますが一つだけ、聖書のあちこちにある、私たちに与えられている経験、聖書は繰り返し「わたしはあなたと共にいる」神様の言葉があります。
わたしはあなたと共にいる。その神様の、有言実行としてのその言葉によって、またわたしたちの今週もまたそれぞれの場所へ出かけていきたいと思います。
わたしはあなたと共にいる。神様の有言実行にまた今週も私たちの舌は讃美をしたいと思います。

2026年㋄3日 5月第1主日礼拝「またおいでになる」㋄になりました。つつじやつばめをおぼえて• それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわ...
15/05/2026

2026年㋄3日 5月第1主日礼拝

「またおいでになる」

㋄になりました。つつじやつばめをおぼえて

• それから弟子たちに言われた、「それだから、あなたがたに言っておく。何を食べようかと、命のことで思いわずらい、何を着ようかとからだのことで思いわずらうな。命は食物にまさり、からだは着物にまさっている。からすのことを考えて見よ。まくことも、刈ることもせず、また、納屋もなく倉もない。それだのに、神は彼らを養っていて下さる。あなたがたは鳥よりも、はるかにすぐれているではないか。あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。そんな小さな事さえできないのに、どうしてほかのことを思いわずらうのか。野の花のことを考えて見るがよい。紡ぎもせず、織りもしない。しかし、あなたがたに言うが、栄華をきわめた時のソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。(ルカによる福音書第12章22~28節)

ここにある言葉をつばめ、つつじに置き換えて、神様の思いをこころに留めます。
恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。(ルカによる福音書第12章32節)
あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。(ルカによる福音書第12章40節)
イエス様が来られる。そんな言葉の中に私たちの思いをおいてみて今日の聖書を読んでいきます。

• イエスは苦難を受けたのち、自分の生きていることを数々の確かな証拠によって示し、四十日にわたってたびたび彼らに現れて、神の国のことを語られた。そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて
言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(使徒行伝第1章3~11節)

この使徒行伝はルカによる福音書を同じ人が書いたと思われています。
ルカによる福音書の最後のところを確認したいと思います。

• 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。それから、イエスは彼らをベタニヤの近くまで連れて行き、手をあげて彼らを祝福された。祝福しておられるうちに、彼らを離れて、〔天にあげられた。〕彼らは〔イエスを拝し、〕非常な喜びをもってエルサレムに帰り、絶えず宮にいて、神をほめたたえていた。(ルカによる福音書第24章50~53節)

ほめたたえていた。つづく…というところで使徒行伝につながっています。
使徒行伝での終わりを見てみると、

• パウロは、自分の借りた家に満二年のあいだ住んで、たずねて来る人々をみな迎え入れ、
• 31:使徒行伝/ 28章 31節
はばからず、また妨げられることもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。(使徒行伝第28章30~31節)

イエス・キリストのことを教えつづけた。ここもまたさらに「続く」という言葉をおいていきたい。
また、おいでになる。まさに続く。イエス様とお別れでなく、続く。
またおいでになった二人がいます。白い衣をきた二人、おそらく天使。

• 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。ところが、石が墓からころがしてあるので、中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。(ルカによる福音書第24章1~6節)

輝いた衣を着たふたりの者、今日は白い衣のふたり。
白く輝くふたりがまたおいでになった。
そんな二人のあとに、またおいでになる。
私たち、「続く」そのことを嬉しい事としてあることをルカは語っています。
ルカが語るのは苦しみが続くではなく、喜びが続く。
今日の聖書の箇所では新約でここにしかない言葉がいくつかあります。
確かな証拠、現れて、食事をともにする、待つ
よくある言葉に感じるけれど、ここにしかない言葉。
こんな言葉に出会う時、なんだろう?言葉の意味は?と思ってしまいます。
確かな証拠はこんないみなんだよ、現れてはこんないみなんだよ、待つはこんないみなんだよ、なんだろう?続く、と繰り返しています。
私たちの続くと神様の続くは違っています。

さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

まず言葉の訂正をしていただきたいと思います。
弟子たち→彼ら 弟子たち限定せはなく広がりをおぼえます。
彼ら、すなわち、私たちの思い、イスラエルの復興、イスラエルはローマ帝国の支配下の下。
人の思いとして
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、ローマ帝国を滅ぼすであろう」。
ローマ帝国がひっくり返ること。
イエス様は神様の思いを受けて、それが実現するのはイエス様の承認になることとルカは語っています。
食事を共にする、平和の証人になるというかたちでの証人になる。

• また、ほかの安息日に会堂にはいって教えておられたところ、そこに右手のなえた人がいた。律法学者やパリサイ人たちは、イエスを訴える口実を見付けようと思って、安息日にいやされるかどうかをうかがっていた。イエスは彼らの思っていることを知って、その手のなえた人に、「起きて、まん中に立ちなさい」と言われると、起き上がって立った。そこでイエスは彼らにむかって言われた、「あなたがたに聞くが、安息日に善を行うのと悪を行うのと、命を救うのと殺すのと、どちらがよいか」。そして彼ら一同を見まわして、その人に「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、その手は元どおりになった。そこで彼らは激しく怒って、イエスをどうかしてやろうと、互に話合いをはじめた。(ルカによる福音書第6章6~11節)

ここで手が元通りになったことを喜べない人達がいます。
右手のなえたひとにイエス様は「起きて、まん中に立ちなさい」
この人は全身がなえていたわけではない。その人が横になって倒れていました。
私たちは苦しみの大きい、小さいではなく倒れています。
人にいわせると「なあに、そのくらいのことで」
でもイエス様はそんな私に「起き上がりなさい、立ち上がりなさい」と言ってくださる。
復興があります。
元通りになる。それは帰る、帰っていく。
イエス様が私たちのところに帰ってきてくださる。
帰ってこられるイエス様。お別れでおしまいではなく、また帰ってくる。
そこには彼らのひとりとして私たちはまねかれています。
つばめは帰ってきました。燕は夏を連れて帰ってきました。
またおいでになるイエス様は何をもって帰ってきてくださるのでしょうか?
私たちは待っています。
続く…ともに食事をする平和の復興。
平和を取り戻してくださるイエス様。
私のなえた手を復興して下さるイエス様がまたおいでになる。
そのことを握りしめながら歩いて行けることに感謝します。

2026年4月26日 4月第4主日礼拝「イエスの言葉」今日の聖書の前に…• あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、/主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、/正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうす...
28/04/2026

2026年4月26日 4月第4主日礼拝
「イエスの言葉」
今日の聖書の前に…

• あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、/主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。悪しき者はその道を捨て、/正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、/主は豊かにゆるしを与えられる。わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、/わが道は、あなたがたの道とは異なっていると/主は言われる。天が地よりも高いように、/わが道は、あなたがたの道よりも高く、/わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、/地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、/種まく者に種を与え、/食べる者にかてを与える。このように、わが口から出る言葉も、/むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、あなたがたは喜びをもって出てきて、/安らかに導かれて行く。山と丘とはあなたの前に声を放って喜び歌い、/野にある木はみな手を打つ。いとすぎは、いばらに代って生え、/ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、/また、とこしえのしるしとなって、/絶えることはない」。(イザヤ書第55章6~13節)

雨、雪の話があります。

このように、わが口から出る言葉も、/むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、/わたしが命じ送った事を果す。
から変わることないいのちの言葉を聞いていきたいと思います。

• それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った、「あなたがたは、この人に対してどんな訴えを起すのか」。彼らはピラトに答えて言った、「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」。そこでピラトは彼らに言った、「あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい」。ユダヤ人らは彼に言った、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」。これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言われたイエスの言葉が、成就するためである。さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。イエスは答えられた、「あなたがそう言うのは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。ピラトは答えた、「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」ピラトはイエスに言った、「真理とは何か」。こう言って、彼はまたユダヤ人の所に出て行き、彼らに言った、「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。(ヨハネによる福音書第18章28~38節)

イエス様が裁判にかけられる場面。
カヤパのところでも裁きの場面がありました。
カヤパのところからピラトのところへ、イエス様がたらいまわしにされています。別の言い方をすると責任転嫁をしています。
「わたしには、この人になんの罪も見いだせない。」といったピラトが十字架に引き渡しています。
無罪の人を死刑にするとんでもない重苦しい場面から命の言葉を聞いていきます。
私たちはイエス様の言葉を聞いていきます。
言葉、ロゴス。ヨハネの福音書は始めにロゴスがあったから始まっています。

• 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネによる福音書第1章1~5節)

ロゴス、ロゴスと繰り返され、そのロゴスに命があったとしています。
今日の聖書に繋げていくと。ロドスが成就した、命が成就することに耳を傾けていきます。

ここには「死に方」という言葉があります。

• そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。(ヨハネによる福音書第12章32~33節)

ここには十字架という言葉はありません。
全ての人を引き寄せる死に方?これはどういうこと?
それはすべての人が引き寄せられる、その先に命があります。

どの言葉が命に向かっているのでしょうか?
「もしこの人が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」。
わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか」。
「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

「引き渡す」「渡す」という言葉。

イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。(ヨハネによる福音書第19章11節)
• そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。(ヨハネによる福音書第19章16節)

ここにもあります。
別のところでは、ある人に対して別の日本語で訳されています。
ヨハネによる福音書では8回使われているこの言葉。

• イエスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこには園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。イエスを裏切ったユダは、その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがあるからである。さてユダは、一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人たちの送った下役どもを引き連れ、たいまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた。しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼らに言われた、「だれを捜しているのか」。彼らは「ナザレのイエスを」と答えた。イエスは彼らに言われた、「わたしが、それである」。イエスを裏切ったユダも、彼らと一緒に立っていた。(ヨハネによる福音書第18章1~5節)

ここの。ある人とはユダ。
それはどんな日本語でしょうか?それは「裏切る」という言葉。
裏切るという言葉がユダにだけ日本語で訳されています。
イエスを引き渡したユダ、と訳してもいいけれど、ユダに関しては裏切ると訳しています。
今日の聖書に戻ったとしたら「「わたしはユダヤ人なのか。あなたの同族や祭司長たちが、あなたをわたしに裏切ったのだ。」
それはイエス様を裏切ったことになります。

それから人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った。時は夜明けであった。彼らは、けがれを受けないで過越の食事ができるように、官邸にはいらなかった。(ヨハネによる福音書第18章28節)

「それから人々から」
イエス様を裏切ったのはユダ?人々?
ユダ一人ではなく、人々。直訳するとかれら。
そこにいるのは「わたし」私も裏切った人々の中にいます。
でも私たちはイエス様の言葉の成就をたどっています。
今日のイエス様の言葉、死に方、裏切る、引き渡すに変わっていくけれど。

• そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。そこに、酢いぶどう酒がいっぱい入れてある器がおいてあったので、人々は、このぶどう酒を含ませた海綿をヒソプの茎に結びつけて、イエスの口もとにさし出した。すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。(ヨハネによる福音書第19章28~30節)

まさにイエス様の死に方。
たらいましの、責任転嫁の、冤罪の十字架。
でもその先に命につながっていくどんでん返しがあります。
ここにある「ひきとる」が引き渡す、裏切る。
息を裏切ったではなく引き渡すに近い言葉です。
息を渡した。誰に渡したのか…
天におられる神様。
命に続いていきます。
言葉が逆転する、どんでん返しにあう。
イエス様の言葉が成就する、命が成就する。
十字架、息を渡して生きる、命の成就になります。
私たちは死に方ではなく命の成就にまねかれています。

そこでピラトはイエスに言った、「それでは、あなたは王なのだな」。イエスは答えられた、「あなたの言うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」

イエス様の声に耳を傾けるということ。

• 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
• イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
• わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
• わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
• 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
• わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。(ヨハネによる福音書第10章4~11節)

イエス様の声についていく。
皆さんにはどんな言葉が聞こえているでしょうか?
その言葉に耳を傾けて、死に方ではなく命に逆転としちぇイエス様の言葉にまねかれたい。

いとすぎは、いばらに代って生え、/ミルトスの木は、おどろに代って生える。これは主の記念となり、/また、とこしえのしるしとなって、/絶えることはない」。(イザヤ書第55章13節)

ここに逆転があります。
いばら、おどろが逆転して、いとすぎに、ミルトスになる。

わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける

イエス様の言葉によって
死をいのちに、やみを光に逆転していきます。

今週もまた責任転嫁、たらいまわし、冤罪がうずまく暗い世界のこの世に生まれているけれど、羊飼いであるイエス様に牧場に導かれていきます。
命を引き渡す。
命を主にお任せして歩んでいけることに感謝します。

2026年4月19日 4月第3主日礼拝「さあ、朝の食事をしなさい」• そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナの...
23/04/2026

2026年4月19日 4月第3主日礼拝
「さあ、朝の食事をしなさい」
• そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあらわされた次第は、こうである。シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。(ヨハネによる福音書第21章1~14節)

よみがえりのイエス様、立っておられるイエス様が今日の聖書にもあります。
そこに立っている命の姿をおぼえながら、色々気になる言葉があります。

シモン・ペテロの「わたしは漁に行くのだ」ここの漁に行くはここにしかない言葉が使われています。
今日の場面、ヨハネによる福音書の最後の章。
今まで起こった出来事を振り返る言葉がいくつかあります。
シモン・ペテロの思い出、彼について注目したいと思います。

彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。

注目したいのは「炭火」この炭火を見て、ペテロの心はちくっとしたのではないでしょうか?こことあと一ヶ所しかない言葉。

• シモン・ペテロともうひとりの弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった。しかし、ペテロは外で戸口に立っていた。すると大祭司の知り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった。すると、この門番の女がペテロに言った、「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか」。ペテロは「いや、そうではない」と答えた。僕や下役どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼らに交じり、立ってあたっていた。(ヨハネによる福音書第18章15~18節)

三度、イエス様を知らないいう、そこに炭火がありました。
ペテロは今日の炭火を見てどんな思いをしたのでしょうか?
濡れた衣、濡れた体を乾かすための炭火、嬉しい、でしょうか?
でもあの夜、イエス様を知らないと言ったときの炭火を思い出すのではないでしょうか?
もう一つ珍しい言葉があります。
「さあ、朝の食事をしなさい」、ちなみにこの場面、新約でここにしかありません。
食事をしなさい、特別感があります。
始まりをおぼえるそんな言葉がいくつもあります。

シモン・ペテロが、デドモと呼ばれているトマス、ガリラヤのカナのナタナエル、ゼベダイの子らや、ほかのふたりの弟子たちと一緒にいた時のことである。

ガリラヤのカナのナタナエル、彼の思い出の場面は始めの第一章。
終りにいるナタナエルが始めの場面にいます。

• その翌日、イエスはガリラヤに行こうとされたが、ピリポに出会って言われた、「わたしに従ってきなさい」。ピリポは、アンデレとペテロとの町ベツサイダの人であった。このピリポがナタナエルに出会って言った、「わたしたちは、モーセが律法の中にしるしており、預言者たちがしるしていた人、ヨセフの子、ナザレのイエスにいま出会った」。ナタナエルは彼に言った、「ナザレから、なんのよいものが出ようか」。ピリポは彼に言った、「きて見なさい」。イエスはナタナエルが自分の方に来るのを見て、彼について言われた、「見よ、あの人こそ、ほんとうのイスラエル人である。その心には偽りがない」。ナタナエルは言った、「どうしてわたしをご存じなのですか」。イエスは答えて言われた、「ピリポがあなたを呼ぶ前に、わたしはあなたが、いちじくの木の下にいるのを見た」。ナタナエルは答えた、「先生、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」。イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。(ヨハネによる福音書第1章43~51節)

最後の章に登場する人、ナタナエルの名があることによって私たちは最初の章を見ることが出来ます。
そして「カナ」のナタナエル。
ヨハネによる福音書第2章のカナの婚礼の場面で水をぶどう酒に変えたイエス様が最初にしるしを起こされたことを思い出します。

イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。

5000人以上の人びとにパンと魚を分けられたイエス様の出来事を思いだします。
ああ、思い出すね…そんな場面です。
もう一つ、ゼベダイの子らの思い出については他の福音書にあります。
他の福音書もみてごらんというヨハネの思いがあります。
はじめ、他の福音書、いろんな振り返りをおぼえます。
他の福音書、開いてごらん、獲れた魚153匹。
沢山獲れたではなく具体的な数、おそらく153には意味があります。
ヘブライ語のアルファベットには数字が当てはまります。
153をヘブライ語のアルファベットに置き換えると、ダビデ。

アブラハムの子であるダビデの子、イエス・キリストの系図。(マタイによる福音書第1章1節)

ダビデ、それが153になります。
私たちはヨハネによる福音書のあ最後の章を開いているけれど、新約聖書の始めに私たちを招いているような気がします。
はじまり、はじめをおぼえたとき、始まったね…それには目的があります。
新入生になったね、新社会人になったね、新しい生活が始まったねには目的があります。
今日の聖書には目指すものがあります。

イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。

私たちには食べるものを求める生き方があります。
「食べるもの」新約でここにしかない言葉、特別な食べ物。
弟子たちは「ありません」とこたえました。
ではそれを求めていこうという、目指していくものがあります。
弟子たちにとって目指すもの、手に入れたいものがありました。
食べるもの、それは

イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。

注目したいのは「とった」その言葉。
このとるという言葉3節にもありました。

シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。

しかし、その夜はなんの獲物もなかった。とれなかったのに、ここではとれたぞとあります。
新約で12回、そのうち8回ヨハネによる福音書に出てきます。
ヨハネはとることにこだわっています。
その8回のうち、6回は魚以外のものに使われています。
何を捕まえるのか?6回繰り返すその対象は

• そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。(ヨハネによる福音書第7章30節)


群衆がイエスについてこのようなうわさをしているのを、パリサイ人たちは耳にした。そこで、祭司長たちやパリサイ人たちは、イエスを捕えようとして、下役どもをつかわした。(ヨハネによる福音書第7章32節)

何を捕まえるのか?ひとつの相手としてイエスをとらえるを6回繰り返しています。
その捕らえるが今日の魚をとるに使われています。
イエスをとったぞ、ダビデの子をとったぞ。
私たちはパリサイ人と違った意味で「イエス様をつかまえたそ」イエス様をとったにまねかれています。
私たち新年度に目標を持って目指すのはイエス様をつかまえる。
しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
イエス様がつかまらない夜があります。
イエス様、一体どこにいるんだろう?そんな夜があります。
でも夜は明けます。
イエス様が私たちをとらえて下さった。
神様が私たちをとらえて下さった。
そんな嬉しい意味もあるけれど、私たちはイエス様をつかまえる。
そこにあるのは死ではなく命がある。そこには食べ物、命があります。
朝食だけではなく、食事そのものの意味です。
新約で3回しかない言葉。
特別な食事、それは命のスタート。
何も食べられなかった夜があった。
でも命のスタートにまねかれています。
さあ、食事をしなさい。さあ、命のスタート。
さあ、イエス様を捜しに行こうの一週間が始まりました。
その命のスタートに立っておられるイエス様の眼差しがあることに感謝します。

2026年4月12日 4月第2主日礼拝召天者記念礼拝「イエスは『安かれ』と言われた」今日の聖書の前に…• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである...
17/04/2026

2026年4月12日 4月第2主日礼拝
召天者記念礼拝
「イエスは『安かれ』と言われた」

今日の聖書の前に…

• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(テサロニケ人へ第一の手紙第4章13~18節)

眠っている人々について悲しむことはないと語っています。
召天者をおぼえるとき悲しむのではなく望みをいだくことを与えられています。

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。

主に会い、主と共にいる望みを持って今日の聖書を読んでいきたい。

• その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イエスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった。ほかの弟子たちが、彼に「わたしたちは主にお目にかかった」と言うと、トマスは彼らに言った、「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない」。八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。それからトマスに言われた、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。トマスはイエスに答えて言った、「わが主よ、わが神よ」。イエスは彼に言われた、「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。(ヨハネによる福音書第20章19~29節)

4つの福音書に同じ場面が書かれています。
ここには新約でここにしかない言葉がああります。
「釘」。私たち十字架を思う時、釘のイメージが大きいけれど「釘」はここにしかありません。
もう一つ、「息を吹きかける」これも新約でここにしかない言葉です。
別の聖書の場面を思い出します。

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。(創世記第2章7節)

イエス様が息を吹きかけることをヨハネは聖霊に繋げているけれど、創世記では命の息を吹き込まれています。

• イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた。しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである。(ヨハネによる福音書第20章30~31節)

ヨハネが語っているところに「命を得る」
私たちは命の出来事にまねかれています。
私たちは神様によって息を吹きかけられ生きるものとされています。
繰り返されているヨハネの言葉があります。
今日の場面は夕方だけど、朝まで時間を巻き戻してみます。

そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。(ヨハネによる福音書第20章14節)

立っておられるイエス様はよみがえりのイエス様なんだと言う事。

その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。

彼らの中に立ち、「「立つ」がなくも話は通じます。
でもヨハネは立っておられるイエス様をあらわしています。

八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマスも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って「安かれ」と言われた。(ヨハネによる福音書第20章19節)

中に立って、この「立って」がなくても話は通じます。でもヨハネは繰り返し繰り返し立っておられるイエス様を語っています。
立っておられるイエス様。次の21章も見てみたい。

夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。(ヨハネによる福音書第21章4節)

ここにも立っておられるイエス様がおられます。
ヨハネは繰り返し繰り返し立っておられるイエス様を語っています。
よみがえりのイエス様は立っておられるんだ。
立っておられるイエス様を思いながら先に天に還っておられる方々を思い出すけれど。
思い出すのは葬儀の時に棺の中に横になっておられえる姿?病院のベッドで横になっている姿?そんな姿も思いだすけれど元気な姿を思い出します。
ヨハネの墓の中に横になっておられるイエス様ではなく立っておられる、よみがえるイエス様を語っています。
ヨハネは何度も何度もよみがえりのイエス様を書いています。

イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。(ヨハネによる福音書第21章14節)

マルコは

• さて、安息日が終ったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとが、行ってイエスに塗るために、香料を買い求めた。そして週の初めの日に、早朝、日の出のころ墓に行った。そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。墓の中にはいると、右手に真白な長い衣を着た若者がすわっているのを見て、非常に驚いた。するとこの若者は言った、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのであろうが、イエスはよみがえって、ここにはおられない。ごらんなさい、ここがお納めした場所である。今から弟子たちとペテロとの所へ行って、こう伝えなさい。イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて、あなたがたに言われたとおり、そこでお会いできるであろう、と」。女たちはおののき恐れながら、墓から出て逃げ去った。そして、人には何も言わなかった。恐ろしかったからである。(マルコによる福音書第16章1~8節)

天使はイエス様に会えると言っているけれど、イエス様の姿はどこにもありません。

〔週の初めの日の朝早く、イエスはよみがえって、まずマグダラのマリヤに御自身をあらわされた。イエスは以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたことがある。(マルコによる福音書第16章9節)

この9節からは括弧〔 〕がついています。後に他の誰かによって書き足されたもの。
マルコ自身はイエス様の姿を描いていません。
ヨハネは立っておられるイエス様を3回、4回と書いているのに対して違っています。
今日、私たちは立っておられるイエス様の姿を3回4回を出会います。
とても印象的な場面です。
そこにはヨハネによる福音書が書かれた時代の背景かあります。
背景にあるのは苦しみの時。苦しみのその時、イエス様にいつ会えるではなく、今すぐ会いたい、朝でも夕方でも8日目でも何度でも会いたい。

• これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。(ヨハネによる福音書第16章33節)

この世では悩みがある。そんな私たちに何度も何度もイエス様は現れて下さっています。

イエスは安かれと言われた。ここの33節では「平安」と訳されています。
安かれ、直訳すると平安があなたたちに。
何度も何度も、あなたたちに平安、あなたたちに平和と言って下さっています。

• わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。(ヨハネによる福音書第14章27節)

イエス様は「あなったちに平和」「あなたたちに平安」と言っておられます。
平安、平和、このことは新約で92回出てくる言葉、他の書物にも全部あるけれど一つだけない書物があります。
一つだけ出てこないのはヨハネの第一の手紙

• 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について――
• 2:ヨハネの第一の手紙/ 01章 02節
このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである――(ヨハネの第一の手紙第1章1~2節)

平安、平和が出てこない、なんて冷たいではありません。
トマスの思いがわかります。
イエス様の手に指をつけたい。
私たちも召天者のあの人と会いたい。
わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの
この手紙で触ったのはいのちの言

平安をあなたがたに。
よみがえりのイエス様の命のことばに触って生かされていく、
与えられた永遠のいのちに入っていく。

今週も立っておられるよみがえりのイエス様に、あなたがたに平安をいわれ、命の言葉はさわって生かされていくことに感謝します。

2026年4月5日 4月第い主日礼拝イースター「そこにイエスが立っておられる」• しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとり...
10/04/2026

2026年4月5日 4月第い主日礼拝
イースター
「そこにイエスが立っておられる」
• しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。イエスは彼女に言われた、「わたしにさわってはいけない。わたしは、まだ父のみもとに上っていないのだから。ただ、わたしの兄弟たちの所に行って、『わたしは、わたしの父またあなたがたの父であって、わたしの神またあなたがたの神であられるかたのみもとへ上って行く』と、彼らに伝えなさい」。マグダラのマリヤは弟子たちのところに行って、自分が主に会ったこと、またイエスがこれこれのことを自分に仰せになったことを、報告した。(ヨハネによる福音書第20章11~158節)

4つの福音書、すべてに描かれているこの場面、それぞれ違った視点で書かれています。
「報告した」ここにしかない言葉。他の福音書にはありません。
マグダラのマリヤは特別な報告をした。そのことを確認したい。
マグダラのマリヤ、彼女自身のことを考えてみます。
ヨハネによる福音書に彼女が登場するのは2つだけ。
今日のよみがえりの場面と十字架の場面だけです。
今日のよみがえりと十字架の場面。

さて、イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹と、クロパの妻マリヤと、マグダラのマリヤとが、たたずんでいた。(ヨハネによる福音書第19章25節)

マリヤーズの一人のマグダラのマリヤがいます。
彼女はここが初登場。
他の福音書では他の場面でも登場するけれど、今日の場面のその先にも登場しません。
マグダラ出身ということしかわかりません。
ヨハネによる福音書ではたった2回、十字架とよみがえりの場面、たったそれだけ。
十字架の場面ではたたずんでいた。立っているだけ。
今日もまた墓の外で立っています。
一つ言えること、そんなマグダラのマリヤによみがえりのイエス様は最初に出会ってくださいました。

• さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。(ヨハネによる福音書第20章1~10節)
ここではペテロともう一人の弟子のかけっこが面白いところだけれど、今日はマグダラのマリヤに注目したい。
マリヤは何のために墓に行ったのでしょうか?
まだ暗いうちに墓に行くマリヤ。他の福音書では香油を塗るために行ったとあります。
でもヨハネによる福音書では香油を塗ることはしてません。
すでに香油は塗られています。

• そののち、ユダヤ人をはばかって、ひそかにイエスの弟子となったアリマタヤのヨセフという人が、イエスの死体を取りおろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトはそれを許したので、彼はイエスの死体を取りおろしに行った。また、前に、夜、イエスのみもとに行ったニコデモも、没薬と沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた。彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。イエスが十字架にかけられた所には、一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった。その日はユダヤ人の準備の日であったので、その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた。(ヨハネによる福音書第19章38~42節)

マグダラのマリヤは墓に行っても何もすることはありません。だた立っているだけ。
何もスtることができないマグダラのマリヤがいるだけです。
でもそのマグダラのマリヤによみがえりのイエス様が出会って下さったという重大報告。
もうひとつマグダラのマリヤについて考えてみたいと思います。
マグダラのマリヤは早とちりの人。

• さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
• 2:ヨハネによる福音書/ 20章 02節
そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。

マリヤは石がとりのけられているのを見ただけ。盗まれたことを確認していません。
もう一つ。

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

ここの「番人」ここにしかない言葉。
それを置いておいても、マグダラのマリヤの早とちりがあります。
しかし別の意味でのマグダラのマリヤのの早とちりがあります。
もともとある聖書の言葉がここにはないので足してください。

イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。実はひと言目に「主よ」と言っています。

「主よ、もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。

訳されていない「主よ」をマグダラのマリヤは言っています。
早とちりをして園の番人と思っているけれどマリヤは「主よ」と言っています。
他の福音書もばっさりとカットしています。
勘違い、思い違いかもしれないけれど、マグダラのマリヤはイエス様に「主よ」と言っています。
マグダラのマリヤの初登場は十字架のそばに立っているだけ。
今日は墓の外に立っているだけ。
何をすることもないのに墓の外に立っているだけ。
そんな彼女とペテロたちは同じ行動をとっています。

そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。

身をかがめて見ているのはペテロたちもマグダラのマリヤも同じ。
そこに大きな違いは、ペテロたちが見たのは、布が置いてあるだけ。
マグダラのマリヤが見たのは二人の天使、そしてよみがえりのイエス様に声をかけられています。
そこでマグダラのマリヤのなにがしかを確認します。
彼女は泣いていました。ペテロたちは墓に行っている、それだけ。
マグダラのマリヤは泣いていた、そして墓に行ってみています。
決定的に違うのは、泣いている。泣いている彼女に天使もイエス様も同じ問いをしてます。
「女よ、なぜ泣いているのか」
泣いている女によみがえりのイエス様は出会って下さっています。
泣いている、彼女は泣いていた。なぜ泣いている?なぜ泣いている?と繰り返されています。
泣いているものによみがえりのイエス様は声をかけて下さっています。

しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと

そこで彼女はペテロたちと違うものをみます。
私たちも身をかがめて墓の中をのぞきます。
彼女は泣いている、そこで彼女は二人の天使を見ます。
そしてその天使は白い衣を着ていました。
彼女がみた「白」についてヨハネはこう語っています。

• あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。(ヨハネによる福音書第4章35~36節)

実はここの「色づいて」が今日の天使の衣の白と訳されています。
天使は収穫の装いをしています。そのみ使いがマグダラのマリヤには見えました。
色づいた収穫の喜びの命の装いのみ使いをみたマグダラのマリヤ。
泣いているその者によみがえりのイエス様は出会って下さっています。
後ろを見てみるとよみがえりのイエス様が立っておられる。
何もできなくて立っているだけ、マグダラのマリヤは十字架のもとに立っているだけ。
そのマグダラのマリヤが見たのは立っておられるイエス様。
私たちの後ろによみがえりのイエス様が収穫の装いのイエス様が立って下さっています。収穫の喜びに命の喜びにまねかれています。涙の先にある命にまねかれています。
収穫の朝として、よみがえりの朝としてイエス様が出会って下さったことに感謝します。

住所

小倉南区徳力6-10/6
Kitakyushu-shi, Fukuoka

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