企救バプテスト教会

企救バプテスト教会 2012年12月念願の新会堂が完成しました 教会聖句
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について感謝しなさい。
  テサロニケ人への第一の手紙
    第5章16~18節

06/08/2026
2026年8月2日 8月第一主日礼拝「ますます、いよいよ」• さて、ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。すなわちルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン...
06/08/2026

2026年8月2日 8月第一主日礼拝
「ますます、いよいよ」
• さて、ヤコブと共に、おのおのその家族を伴って、エジプトへ行ったイスラエルの子らの名は次のとおりである。すなわちルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アセルであった。ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十人。ヨセフはすでにエジプトにいた。そして、ヨセフは死に、兄弟たちも、その時代の人々もみな死んだ。けれどもイスラエルの子孫は多くの子を生み、ますますふえ、はなはだ強くなって、国に満ちるようになった。ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。彼はその民に言った、「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。そこでエジプトびとは彼らの上に監督をおき、重い労役をもって彼らを苦しめた。彼らはパロのために倉庫の町ピトムとラメセスを建てた。しかしイスラエルの人々が苦しめられるにしたがって、いよいよふえひろがるので、彼らはイスラエルの人々のゆえに恐れをなした。エジプトびとはイスラエルの人々をきびしく使い、つらい務をもってその生活を苦しめた。すなわち、しっくいこね、れんが作り、および田畑のあらゆる務に当らせたが、そのすべての労役はきびしかった。(出エジプト記第1章1~14節)
今日の聖書、名前があがっている人々は創世記につながっています。
出エジプト記を開くとき、心に留めたいのは名前。
出エジプト記はギリシャ語の書名。元々のヘブル語での書名は初めに。
出エジプト記の書名は「これらの名前」。名前の書となっています。
たまたま始めの一言が名前の書。
出エジプト記で神様の名前が初めて明らかにされます。
名前がいろいろ並んでいて「合わせて七十人」
注目したいのは「人」、人の数をあらわすときの「人」がついているわけではありません。
ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十。ほとんどはこう言う風にあらわしています。
今日の「人」、意味をあらわすと「命」
ヤコブの腰から出たものは、合わせて七十の命。
70の命がそこにある。特別な表現です。
命の出来事が創世記からつながっています。
大きなつながりをおぼえるのは「ますます。いよいよ」「ふえる」「満ちる」
ここで私たちは創世記の伏線回収となります。

• 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」。神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記第1章24~28節)

ここでいよいよ、ますます、増し加えるがあります。
神様が命を造って下さるその場面。
「いよいよ、ますます、増し加える」
その伏線を今日、出エジプト記で回収しています。
神様の祝福が出エジプト記にもありました。
いよいよ、ますまし、増していく、増える、ひろがる。
天地創造の命のわざから始まっています。
そこに私たちが生かされています。
ここでは神様の祝福が逆転されています。

ここに、ヨセフのことを知らない新しい王が、エジプトに起った。

ここで天地創造の命の出来事にストップがかかりました。
この8節を境に辛さが。労役が、ますます増えていきます。
神様の祝福のますますが、苦しみのますますに変わっていきます。
創世記からのつながりが切れてしまった…
ヨセフとエジプトの関係の一コマ。

• ヨセフはパロに言った、「パロの夢は一つです。神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。七頭の良い雌牛は七年です。七つの良い穂も七年で、夢は一つです。あとに続いて、上がってきた七頭のやせた醜い雌牛は七年で、東風に焼けた実の入らない七つの穂は七年のききんです。わたしがパロに申し上げたように、神がこれからしようとすることをパロに示されたのです。エジプト全国に七年の大豊作があり、その後七年のききんが起り、その豊作はみなエジプトの国で忘れられて、そのききんは国を滅ぼすでしょう。後に来るそのききんが、非常に激しいから、その豊作は国のうちで記憶されなくなるでしょう。パロが二度重ねて夢を見られたのは、この事が神によって定められ、神がすみやかにこれをされるからです。それゆえパロは今、さとく、かつ賢い人を尋ね出してエジプトの国を治めさせなさい。パロはこうして国中に監督を置き、その七年の豊作のうちに、エジプトの国の産物の五分の一を取り、続いて来る良い年々のすべての食糧を彼らに集めさせ、穀物を食糧として、パロの手で町々にたくわえ守らせなさい。こうすれば食糧は、エジプトの国に臨む七年のききんに備えて、この国のためにたくわえとなり、この国はききんによって滅びることがないでしょう」。この事はパロとそのすべての家来たちの目にかなった。そこでパロは家来たちに言った、「われわれは神の霊をもつこのような人を、ほかに見いだし得ようか」。またパロはヨセフに言った、「神がこれを皆あなたに示された。あなたのようにさとく賢い者はない。あなたはわたしの家を治めてください。わたしの民はみなあなたの言葉に従うでしょう。わたしはただ王の位でだけあなたにまさる」。パロは更にヨセフに言った、「わたしはあなたをエジプト全国のつかさとする」。そしてパロは指輪を手からはずして、ヨセフの手にはめ、亜麻布の衣服を着せ、金の鎖をくびにかけ、自分の第二の車に彼を乗せ、「ひざまずけ」とその前に呼ばわらせ、こうして彼をエジプト全国のつかさとした。ついでパロはヨセフに言った、「わたしはパロである。あなたの許しがなければエジプト全国で、だれも手足を上げることはできない」。パロはヨセフの名をザフナテ・パネアと呼び、オンの祭司ポテペラの娘アセナテを妻として彼に与えた。ヨセフはエジプトの国を巡った。(創世記第41章25~45節)

一言でまとめてしまうと、ヨセフはエジプトを大飢饉から救った人。
神様が共におられることによってエジプトをききんから救いました。
ヨセフを知らない新しいパロが登場することによってそれが苦しみに変わりました。
歴史を知らない、歴史を学ばない新しい王。
私たちは出エジプト記を読み進めるうちにいよいよますますの伏線回収をしています。
名前が並んでいることで伏線回収をしています。
今日の聖書にある名前について、のちの伏線回収があります。

「見よ、イスラエルびとなるこの民は、われわれにとって、あまりにも多く、また強すぎる。
さあ、われわれは、抜かりなく彼らを取り扱おう。彼らが多くなり、戦いの起るとき、敵に味方して、われわれと戦い、ついにこの国から逃げ去ることのないようにしよう」。

ヨセフのことを知らない王がこう言っています。

出エジプト記に貫く言葉があります。
「逃げ去る」この言葉が伏線回収されたとき、別の言葉になっています。

• わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。(出エジプト記第3章8節)

ここで導き上るが今日の逃げ去ると同じ言葉。

それでわたしはあなたがたを、エジプトの悩みから導き出して、カナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとの地、乳と蜜の流れる地へ携え上ろうと決心した」と』。(出エジプト記第3章14節)

ここでは導き出すが同じ言葉が使われています。

「導き出す」今日私たちが読んだのは「逃げ去る」それが神様によって導き上るとなります。
今日、苦しみなやむかもしれない、でも神様によって導き上るに伏線回収されていきます。
私たちを名前で呼んで下さる主が伏線回収によって、私たちを名前で呼んで、愛して下さり、命を与えて下さる。
神様によって伏線回収して下さることをワクワクした待つ私たち。
神様が私たちを数で把握命として覚えて下さっている。
逃げ去るを導き上るに変えて下さる神様。
名前を呼んで命としてその導きを握りしめて今週も歩んでいけることに感謝します。

2026年7月26日 7月第4主日礼拝「平和の主が与える平和」• 兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら...
31/07/2026

2026年7月26日 7月第4主日礼拝
「平和の主が与える平和」
• 兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。どうか、わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがた一同と共にあるように。(テサロニケ人への第二の手紙第3章13~18節)

ここでパウロ自身が、手ずからあいさつを書く。これは、わたしのどの手紙にも書く印である。わたしは、このように書く。

本物でアピールしてます。本物じゃないのかな?と疑いをおぼえてしまいます。
当時は口述筆記で、それは仲間なの?奴隷なのか?
そんな中、全体の終りで自分で巣よとアピールしています。
パウロのてがみですよと本物アピール。
私たちはパウロが書いたか銅貨ではなく、手紙の中で主が書かれているかどうかを心に留めたいと思います。
平和に主が与える平和、ここで平和について二つの関係が語られています。
一つは平和の主である神様との関係。
もう一つは人との関係をたどっていきたい。

• 兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。

ここにある良い働きをするは聖書のここにしかない言葉。
そんなお勧めの言葉を手紙の主は書いています。
平和に生きるという良い働き。たゆまず平和に生きなさい。
そんな関係を今日の聖書の前の言葉でたどっていきたいと思います。

• 最後に、兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。また、どうか、わたしたちが不都合な悪人から救われるように。事実、すべての人が信仰を持っているわけではない。しかし、主は真実なかたであるから、あなたがたを強め、悪しき者から守って下さるであろう。わたしたちが命じる事を、あなたがたは現に実行しており、また、実行するであろうと、わたしたちは、主にあって確信している。どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。(テサロニケ人への第二の手紙第3章1~5節)

主、主、主と主の名前が並んでいます。
主は私たちを強めて下さる。
主は私たちを守って下さる。
主は私たちにキリストの忍耐を持たせて下さる。

どうか、主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐とを持たせて下さるように。

ここに赤ペンを入れて欲しいと思います。
「持たせて」消して下さい。そもそもない言葉。
「導く」新約で3回しかあい珍しい言葉です。
そのうちの一つがテサロニケ人への第一の手紙にあります。

• どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。(テサロニケ人への第一の手紙第3章11節)

道を開くが今日の「導く」と訳されています。

どうか、主があなたがたの心を道に向かって道を開いてくださるように。

あと一ヶ所は

• 幼な子よ、あなたは、いと高き者の預言者と呼ばれるであろう。主のみまえに先立って行き、その道を備え、罪のゆるしによる救を/その民に知らせるのであるから。これはわたしたちの神のあわれみ深いみこころによる。また、そのあわれみによって、日の光が上からわたしたちに臨み、暗黒と死の陰とに住む者を照し、/わたしたちの足を平和の道へ導くであろう」。(ルカによる福音書第1章76~79節)

ここでは平和へと道を開いて下さる主。ここにも平和があります。
私たちの前に平和の道を開いて下さる。

• 最後に、兄弟たちよ。わたしたちのために祈ってほしい。どうか主の言葉が、あなたがたの所と同じように、ここでも早く広まり、また、あがめられるように。

広まる。…走るという意味
面白い表現があります。
言葉が走っている。
ザカリヤでは日の光。
走ると日の光がそろっている詩篇があります。

もろもろの天は神の栄光をあらわし、/大空はみ手のわざをしめす。この日は言葉をかの日につたえ、/この夜は知識をかの夜につげる。話すことなく、語ることなく、/その声も聞えないのに、その響きは全地にあまねく、/その言葉は世界のはてにまで及ぶ。神は日のために幕屋を天に設けられた。日は花婿がその祝のへやから出てくるように、/また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。それは天のはてからのぼって、/天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、/主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、/主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。主を恐れる道は清らかで、/とこしえに絶えることがなく、/主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、/また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。だれが自分のあやまちを知ることができましょうか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。また、/あなたのしもべを引きとめて、/故意の罪を犯させず、/これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、/大いなるとがを免れることができるでしょう。わが岩、わがあがないぬしなる主よ、/どうか、わたしの口の言葉と、/心の思いが/あなたの前に喜ばれますように。(詩篇第19篇)

この詩人が主の言葉が太陽のように光っているとうたっています。
ここで一つの言葉があります。

それは天のはてからのぼって、/天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。

私たちは主の言葉に生かされています。
「暖まり」、そもそも詩人が使っている言葉は「熱」
太陽の力に圧倒されています。暖まりどころではありません。
主の言葉に詩人は喜んでいます。
太陽のように走る主の言葉が平和へと続いています。
もう一つの平和のかたち。

• 兄弟たちよ。主イエス・キリストの名によってあなたがたに命じる。怠惰な生活をして、わたしたちから受けた言伝えに従わないすべての兄弟たちから、遠ざかりなさい。わたしたちに、どうならうべきであるかは、あなたがた自身が知っているはずである。あなたがたの所にいた時には、わたしたちは怠惰な生活をしなかったし、人からパンをもらって食べることもしなかった。それどころか、あなたがたのだれにも負担をかけまいと、日夜、労苦し努力して働き続けた。それは、わたしたちにその権利がないからではなく、ただわたしたちにあなたがたが見習うように、身をもって模範を示したのである。また、あなたがたの所にいた時に、「働こうとしない者は、食べることもしてはならない」と命じておいた。ところが、聞くところによると、あなたがたのうちのある者は怠惰な生活を送り、働かないで、ただいたずらに動きまわっているとのことである。
• 12:テサロニケ人への第二の手紙/ 03章 12節
こうした人々に対しては、静かに働いて自分で得たパンを食べるように、主イエス・キリストによって命じまた勧める。(テサロニケ人への第二の手紙第3章6~12節)

もしこの手紙にしるしたわたしたちの言葉に聞き従わない人があれば、そのような人には注意をして、交際しないがよい。彼が自ら恥じるようになるためである。(14節)
ここだけ読むと働かざる者食うべからずになりそうだけど、テサロニケの人々の様子、繰り返される言葉があります。
イエス様がもう一度来られる新しいクリスマス。それは慰めへと続いていたけれど、その出来事について誤解した人々がここにいます。
イエス様が来られるんなら、もう働かなくていいんじゃないの?
そんな考えが広まっていました。
朱に交われば赤くなる、でしょうか?
ここで「遠さかれ」「交際しない」
平和とは真逆の言葉が並んでいます。
「交際しない」新約で2回しか出てこない言葉。
交際しない、遠ざかれ、朱に交われば赤くなるかrた。
私たちは平和のことに思いを巡らせているのに真逆のことを語っています。
人と人との平和が成り立つこと、正直言って難しい事と思います。
平和をつくることは人間にはできないのでしょうか?

どうか、平和の主ご自身が、いついかなる場合にも、あなたがたに平和を与えて下さるように。主があなたがた一同と共におられるように。
神様のもとにはいっぱい平和があふれています。
その豊富な在庫の中から私たちに与えられた平和があります。

しかし、彼を敵のように思わないで、兄弟として訓戒しなさい。

敵ではなく、兄妹として。そこに神様から与えられた平和があります。
もしかしたら私たち、あの人のこと、兄弟として思っているけれど、あの人は私を敵として思っているかもしれない…
人と人との平和。
でも在庫豊富な平和にまねかれています。

• 兄弟たちよ。あなたがたは、たゆまずに良い働きをしなさい。

ここに「たゆまず」、新約で6回出てくる言葉。
あきらめずに、やる気を失わずに、落胆でせずに。
そこにつすいている「良い働き」
私には無理無理、平和ってなかなか難しい。
いや、諦めないで落胆せずにやる気を失わないで、兄弟として姉妹として友として、主がまねいておられる平和の道へと歩を進めることが出来ることに感謝します。

2026年7月19日 7月第3主日礼拝「みもとに集められること」• しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対す...
24/07/2026

2026年7月19日 7月第3主日礼拝
「みもとに集められること」
• しかし、主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰とによって、救を得させようとし、そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、わたしたちの主イエス・キリストの栄光にあずからせて下さるからである。そこで、兄弟たちよ。堅く立って、わたしたちの言葉や手紙で教えられた言伝えを、しっかりと守り続けなさい。どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。(テサロニケ人への第二の手紙第2章13~17節)

今日の宣教の題は2章1節にあります。

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。

みもとに集められる、新約で2回しか出てこない特別な言葉。
今日の聖書の箇所でも違う言葉で語られています。

そのために、わたしたちの福音によりあなたがたを召して、

「召して」が集められると重ねられています。
「召す」と訳されるこの言葉、何度も出てくるおなじみの言葉です。
「まねく」「呼ぶ」神様によってまねかれている、神様によって呼ばれている。
神様によって名前を呼ばれる。
「集められる」「召される」そしもう一つ
選ばれている、愛されている。
そんな言葉に並びをおぼえることが出来ます。

さて兄弟たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの来臨と、わたしたちがみもとに集められることとについて、あなたがたにお願いすることがある。

主イエスの来臨、新しいクリスマス。
第一の手紙ではそれはなぐさめの言葉でした。
第二の手紙でがはさばきの言葉になっています。
裁き、有罪ではなく、無罪の裁きもあります。
滅びではなく救いの裁きがありました。
来臨について人々の混乱がありました。

• 霊により、あるいは言葉により、あるいはわたしたちから出たという手紙によって、主の日はすでにきたとふれまわる者があっても、すぐさま心を動かされたり、あわてたりしてはいけない。だれがどんな事をしても、それにだまされてはならない。まず背教のことが起り、不法の者、すなわち、滅びの子が現れるにちがいない。彼は、すべて神と呼ばれたり拝まれたりするものに反抗して立ち上がり、自ら神の宮に座して、自分は神だと宣言する。わたしがまだあなたがたの所にいた時、これらの事をくり返して言ったのを思い出さないのか。そして、あなたがたが知っているとおり、彼が自分に定められた時になってから現れるように、いま彼を阻止しているものがある。不法の秘密の力が、すでに働いているのである。ただそれは、いま阻止している者が取り除かれる時までのことである。その時になると、不法の者が現れる。この者を、主イエスは口の息をもって殺し、来臨の輝きによって滅ぼすであろう。不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。彼らが滅びるのは、自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。(テサロニケ人への第二の手紙第2章2~12節)

一言でいうと、ニセ情報に騙されるな、そしてあわてるな。
新しいクリスマスは実現しているけれど、ラスボスみたいなのが出てくる。でもそれは主の息をもって滅ぼされる。
ラスボスを滅ぼしてくれる。それはヨハネの黙示録において慰めのことばとして 語られています。
あわてるな。
私たちもニセ情報で慌てることがあります。
ニセ情報の新しいクリスマスが来た。それは私たちの心をかき乱す情報。
それにあわてるな。

• またオリブ山で、宮にむかってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにお尋ねした。「わたしたちにお話しください。いつ、そんなことが起るのでしょうか。またそんなことがことごとく成就するような場合には、どんな前兆がありますか」。そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。(マルコによる福音書第13章3~8節)

読みながらいろいろ思い当たることがある?でしょうか。
気になる言葉がここにあります。

• 荒らす憎むべきものが、立ってはならぬ所に立つのを見たならば(読者よ、悟れ)、そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げよ。屋上にいる者は、下におりるな。また家から物を取り出そうとして内にはいるな。畑にいる者は、上着を取りにあとへもどるな。その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。この事が冬おこらぬように祈れ。その日には、神が万物を造られた創造の初めから現在に至るまで、かつてなく今後もないような患難が起るからである。もし主がその期間を縮めてくださらないなら、救われる者はひとりもないであろう。しかし、選ばれた選民のために、その期間を縮めてくださったのである。そのとき、だれかがあなたがたに『見よ、ここにキリストがいる』、『見よ、あそこにいる』と言っても、それを信じるな。にせキリストたちや、にせ預言者たちが起って、しるしと奇跡とを行い、できれば、選民をも惑わそうとするであろう。だから、気をつけていなさい。いっさいの事を、あなたがたに前もって言っておく。その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。(マルコによる福音書第13章14~27節)

いずれにしても、あわてるな。
でも私たちがあわてそうなことばが並んでいます。
にせキリストたちや、にせ預言者たち
新しいクリスマスが来る前に起こる出来事。でも
「これらは産みの苦しみの初めである。」
今、心騒ぐことがあっても、命の誕生がある。
その命の時に思いを馳せます。

そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

ここにこだわっている言葉があります。
それが慰めの言葉としてここにあります。
私たちは神様によって呼び集められる存在、召されている存在、まねかれている存在、選ばれている存在、愛されている存在です。
私たちは神様によって約束されています。
みもとに集められる。その生き方を与えられています。

• 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、愛と善行とを励むように互に努め、ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。(へブル人への手紙第10章9~25節)

ここに今日たどり着いた、かの日、まさに新しいクリスマス。
その前に起こる出来事。
その中でひとつの言葉があります。
「集会をやめることはしないで」
集会、集めれることをやめないでと言っています。
集会、礼拝に集められています。
へブル人への手紙では、辞めた人がいます。
私たちは礼拝で集会をおぼえることができます。
もう一つ、私たちは集められること、集会をやめないことによって安否確認ができます。
集会をやめない、みもとに集められることによって、ニセ情報に騙されないで安否確認ができます。
無事だった?元気だった?
私たち、新しいクリスマスにワクワクするだけではなく、その前に二で情報に騙されないであわてることなく、安否確認ができる。そのうえで新しいクリスマスを待つことが出来ることに感謝します。

2026年7月12日 7月第2主日礼拝「神の国にふさわしい者に」• パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるよ...
17/07/2026

2026年7月12日 7月第2主日礼拝
「神の国にふさわしい者に」

• パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。そのために、わたしたち自身は、あなたがたがいま受けているあらゆる迫害と患難とのただ中で示している忍耐と信仰とにつき、神の諸教会に対してあなたがたを誇としている。これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう――わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。このためにまた、わたしたちは、わたしたちの神があなたがたを召しにかなう者となし、善に対するあらゆる願いと信仰の働きとを力強く満たして下さるようにと、あなたがたのために絶えず祈っている。それは、わたしたちの神と主イエス・キリストとの恵みによって、わたしたちの主イエスの御名があなたがたの間であがめられ、あなたがたも主にあって栄光を受けるためである。(テサロニケ人への第二の手紙第1章1~12節)

何のことが語られていのかわからないところがあります。
わかりづらい理由があります。
3節兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。から10節わたしたちのこのあかしは、あなたがたによって信じられているのである。
迄が一つの文になっています。理由はわからないけれど長い文章が届けられています。

• パウロとシルワノとテモテから、わたしたちの父なる神と主イエス・キリストとにあるテサロニケ人たちの教会へ。

第一の手紙と同じ言葉が綴られているけれど、果たして同じ人が書いたのかわかりません。

兄弟たちよ。わたしたちは、いつもあなたがたのことを神に感謝せずにはおられない。またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。

「増し加わっている」で感謝していると語っています。
増し加わっているはパウロがよく使っている言葉。

• どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。(テサロニケ人への第一の手紙第3章11~12節)

ここにアァメンが加わっている写本もあります。
まさに祈りの言葉。
わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。
愛を増し加えて下さるようにの祈りの言葉があります。
今日の
あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。
につながっています。
第一の手紙の祈りがかなえられたことに感謝しています。

またそうするのが当然である。それは、あなたがたの信仰が大いに成長し、あなたがたひとりびとりの愛が、お互の間に増し加わっているからである。

祈がかなえられた。
同じようなことを言っているけれど語り方が違っているように思えます。

それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。

イエス様が再び来られる新しいクリスマス。
イエス様が再び来られる時のことをどちらも語っているけれど

• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(テサロニケ人への第一の手紙第4章13~18節)

とても「不思議な光景、新しいクリスマス、それ¥はなぐさめの日を待って、私たちは生かされています。
再びイエス様が来られる新しいクリスマスについて
第二の手紙では

それは、主イエスが炎の中で力ある天使たちを率いて天から現れる時に実現する。
その時、主は神を認めない者たちや、わたしたちの主イエスの福音に聞き従わない者たちに報復し、そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。その日に、イエスは下ってこられ、聖徒たちの中であがめられ、すべて信じる者たちの間で驚嘆されるであろう

ここに並んでいるのは、炎の中、力ある天使、報復、滅び、刑罰
どれ一つとっても背筋がぞくっとする言葉が並べられています。
新しいクリスマス、イエス様が再び来られること、同じ言葉を語っているけれど。
永遠の滅びに至る刑罰。
神の国にふさわしい者になるために何をしたらいいだろう?
刑罰を受けないためにどうしたらいいだろう?
備え、準備はどうしたらいいだる?
第一の手紙ではワクワクしながら待っていたけれど、第二の手紙では、永遠の滅びに至る刑罰を受ける可能性がある。
私たちは圧の準備をしています。言うなれば危険。
暑さ、危機に備えるために、塩分?水分?クーラー?
危機と言えば台風、地震もあります。
その中で永遠の滅びに至る刑罰に備えてどんな準備をしたらいい?
言葉を変えると、神に国にふさわしい者になるためにどんなことをしたらいい?

これは、あなたがたを、神の国にふさわしい者にしようとする神のさばきが正しいことを、証拠だてるものである。その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。

ここで私たちは、神の国にふさわしい者になるために、私が何をするのではなく、神様ご自身が私たちを神の国にふさわしい者にしてくださいます。

そして、彼らは主のみ顔とその力の栄光から退けられて、永遠の滅びに至る刑罰を受けるであろう。

ここで気になる言葉があります。「さばき」
その前にあることは、神の国にふさわしい者、の裁き
裁きには2つあります。
一つは刑罰の宣告、有罪。もう一つは無罪の裁きもあります。
野球の新盤の言葉で言えば「アウト」か「セーフ」か。
裁判では「有罪」か「無罪」
私たちは有罪を想像してビクビクづるけれど。
永遠の滅びに至る刑罰もあれば

すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に、休息をもって報いて下さるのが、神にとって正しいことだからである。

判決を言い渡す。あなたに休息を与える。
それが神様の正しい裁きだと気づきます。
その判決を受ける備え、準備をするのではなく、ふさわしいものとして下さるのが神様です。
私たちが備え、準備をするのではなく神様がそうして下さる。

その神の国のために、あなたがたも苦しんでいるのである。

ここに苦しみ、

すなわち、あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがた

ここに、悩み、患難があります。

やっぱり、苦しまないと神の国にふさわしい者になれないのかなと思ってしまいます。

「苦しんでいる」が何度も出てくる福音書、その中で苦しんでいるをたどっていくと、イエス様が苦しんでいくにたどり着きます。
私たちの苦しみはイエス様ご自身が経験して下さっています。

• キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。(ルカによる福音書第24章26節)
ここでは苦難を受けて

• キリストは必ず、これらの苦難を受けて、その栄光に入るはずではなかったのか」。(ルカによる福音書第24章46節)
ここでは苦しみを受けてとあります。
聖書で苦しむというとこ場は何種類かあるけれど、今日の聖書の「苦しむ」は全てイエス様の苦しみ。
あくまでも神の国にふさわしい者になるのは、私自身が備え、準備をするのではなく神様がそうしてくださる。
そこに究極の休息、よみがえりがあります。それを既にイエス様ご自身が経験して下さっている。私たちの苦しみにイエス様がともにいてくださいます。
私たちに約束されている休息もイエス様もされて下さっている。
私たち、準備するのはなき神様がして下さっている、私たちの苦しみもイエス様がして下さっている、その命の言葉に今週もまた進んでいきたい。
そのことに感謝します。

2026年7月5日 7月第一主日礼拝 神学校週間「喜び、祈り、感謝」• 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互...
10/07/2026

2026年7月5日 7月第一主日礼拝 神学校週間
「喜び、祈り、感謝」
• 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。兄弟たちよ。わたしたちのためにも、祈ってほしい。すべての兄弟たちに、きよい接吻をもって、よろしく伝えてほしい。わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。(テサロニケ人への第一の手紙第5章12~28節)

テサロニケ人への第一の手紙の最後の部分になります。
第2の手紙と比べると少し違うところがあります。
果たしてパウリたちが書いたのか?わかりません。
テサロニケ人への最後の言葉として読んでいきたいと思います。
手紙の最後に私たちは何を書くでしょうか?
最後に書くことが一番伝えたいことが多いでしょう。

わたしは主によって命じる。この手紙を、みんなの兄弟に読み聞かせなさい。

「命ずる」新約でここにしかない強い言葉で締めくくっています。

兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、

ここでは「お願い」

兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。

ここでは「お勧めする」
ゴールに向かって走る。それは人生だけではなく、一年の終りに向かって生活しているとも言えます。教会の交わりの中ではクリスマスに向かって年の後半を進んでいきます。
新約で繰り返し使われている言葉があります。

わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。

イエス様が来られる。またイエス様が来られる。
テサロニケ人への手紙だけではなく、新約で繰り返されています。
新しいクリスマスへ向かって生きていきます。
• そして、死人の中からよみがえった神の御子、すなわち、わたしたちをきたるべき怒りから救い出して下さるイエスが、天から下ってこられるのを待つようになったかを、彼ら自身が言いひろめているのである。(テサロニケ人への手紙第1章10節)

サンタクロースを待つクリスマスではなくイエス様を待つ新しいクリスマスをゴールとして進んでいきます。

• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(テサロニケ人への第一の手紙第4章13~18節)

新しいクリスマス、主の来臨に向かって私たちは走っていきます。
どんなふうに走っていくのか?生きていくのか?
夏に向かってあれをして、これをしてと考えたりします。
一日のうちにもあれしてこれしてがあります。
その中で今日に宣教の題は教会の聖句としている

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。

パウロたちのお願い、勧め、読んだらすぐわかるけれどこの3つだけではありません。
いつも喜んでいなさい。
「いつも」に注目すると、

だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。

ここにも「いつも」があります。
追い求める。まさにパウロの生き方そのもの。
パウロというと、追い求める人。
「迫害する」という意味もあります。パウロの前半のその生き方があります。
それがキリストに逢って、追い求めるに変わりました。
コリント人への手紙では愛を追い求めるにパウロは変わりました。
ここでパウロたちがお願い、勧めているのは

• 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。怠惰な者を戒め、小心な者を励まし、弱い者を助け、すべての人に対して寛容でありなさい。だれも悪をもって悪に報いないように心がけ、お互に、またみんなに対して、いつも善を追い求めなさい。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。御霊を消してはいけない。預言を軽んじてはならない。すべてのものを識別して、良いものを守り、あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

パウロたちのお願い、勧め、いくつあったでしょうか?
まさにあれしてこれして。これしなさい。
パウロが色々語っている、あれしてこれして。
私たちの生活にもあれしてこれしてがあります。
ふと思うことがあります。
ふと思うことがあります。ポストに入れようとしたはずのハガキが玄関にある。
忘れてしまったこと、していなかったことが生活にあります。
手紙の最後に書いていること。
パウロたちに返事を書きたいところです。
そんなに言われても無理です。
パウロは言います。

どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように。あなたがたを召されたかたは真実であられるから、このことをして下さるであろう。

私があれしてこれして、できなかったではなく、私のあれしてこれしては神様がして下さる。
いろいろではなくひとつもできません。
あれしてこれしてを神様があれしてこれしてのわたしにして下さる。
そこにおられるは平和の神様。
お合う理たちが言うことをまもって完全なものになるのではなく、神様がそんな私にして下さる。
これができなかった私、いつも喜んでいなさい。勧められてもいつもは無理です
そんな私を神様は責めるのではなく、できない私を完全なものとしてくださる。
互に平和に過ごしなさい
でも互いに平和にできない私。でもそれを可能にして下さる。
喜び、祈り、感謝を考えてみたい。
「お願いする」新約で63回出てくる言葉。
パウロ自身は3回しか使っていない言葉です。1つは今日の箇所、もう一つは

• 最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。

ここにあります。
パウロのお願いは3回、そのうちテサロニケ人への第一の手紙。
もう一つがピリピ人への手紙。

• わたしはユウオデヤに勧め、またスントケに勧める。どうか、主にあって一つ思いになってほしい。ついては、真実な協力者よ。あなたにお願いする。このふたりの女を助けてあげなさい。彼らは、「いのちの書」に名を書きとめられているクレメンスや、その他の同労者たちと協力して、福音のためにわたしと共に戦ってくれた女たちである。(ピリピ人への手紙第4章2~3節)
お願いの3つ、今日の

• 兄弟たちよ。わたしたちはお願いする。どうか、あなたがたの間で労し、主にあってあなたがたを指導し、かつ訓戒している人々を重んじ、彼らの働きを思って、特に愛し敬いなさい。互に平和に過ごしなさい。

にあたります。

• あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。(ピリピ人への手紙第4章4~7節)

ここに喜び、祈り、感謝があります。
いろんなお願い、お勧めをしているパウロですがこの3つは外せない。
この3つさえできない私がいるかもしれません。たまには喜びなさいなら、せめて時々祈りなさいなら、ついでになら感謝できるかも‥‥
でもいつも喜び、いつも祈り、いつも感謝
私が出来ないではなく平和の神様がそんな私にして下さる。
あれしてこれしてができない私じゃなくてできる者に神様がして下さる。手紙の最後の最後を読んでいきたい。
わたしたちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたと共にあるように。

平和の神様が私たちをできるものとして下さり共にいてくださることに感謝します。

2026年6月28日 6月第4主日礼拝神学校週間「互いに慰め合いなさい」• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように...
03/07/2026

2026年6月28日 6月第4主日礼拝
神学校週間
「互いに慰め合いなさい」
• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。わたしたちが信じているように、イエスが死んで復活されたからには、同様に神はイエスにあって眠っている人々をも、イエスと一緒に導き出して下さるであろう。わたしたちは主の言葉によって言うが、生きながらえて主の来臨の時まで残るわたしたちが、眠った人々より先になることは、決してないであろう。すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(テサロニケ人への第一の手紙第4章13~18節)

6月も終わりとなりました。一年のちょうど半分といったところでしょうか?
この手紙でパウロたちが大切にしているところの半分にあたります。

最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。(テサロニケ人への第一の手紙第4章1節)

この4章では「最後に、兄妹たちよ」で始まっています。
この「最後に」は、「ほかに」という意味もあります。

• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。

の「外の人々のように」の「外の」という言葉と同じ言葉です。

だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。(テサロニケ人への第一の手紙第5章6節)

ここにも「ほかの」があります。同じギリシャ語が使われています。
「最後に」は、もう一つ大切な話をしますよと言う意味です。
パウロたちが大切にしている話が今日の聖書の箇所と次の章の11節までと言うことになります。
大切にしている話のが5章1~11節と言うことになります。

• 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。あなたがたはみな光の子であり、昼の子なのである。わたしたちは、夜の者でもやみの者でもない。だから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして慎んでいよう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うのである。しかし、わたしたちは昼の者なのだから、信仰と愛との胸当を身につけ、救の望みのかぶとをかぶって、慎んでいよう。神は、わたしたちを怒りにあわせるように定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによって救を得るように定められたのである。キリストがわたしたちのために死なれたのは、さめていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。(テサロニケ人への第一の手紙第5章1~11節)

今日の場面は大切な話の前半。

それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。(4章17節)
だから、あなたがたは、今しているように、互に慰め合い、相互の徳を高めなさい。(5章11節) 

前半も後半も変わらない、主と共に、そして互に慰め合うがあります。
まず前半
だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。(4章18節)

とっても不思議な光景が描かれています。
手紙をパウロたちが書いている理由、会いたいけれどなかなか会えない。

• 兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心においてではなく、からだだけではあるが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。(テサロニケ人への第一の手紙第2章17節)
会いたい、会いたい、行こうと思ったけれど行けなかった。
会いたいけれど手紙も書けない、電話もかけられない、メールも送れない。
それはすでに眠っておられる方々。
パウロたちは言います。
• 兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。望みを持たない外の人々のように、あなたがたが悲しむことのないためである。
眠っている人たちに悲しみをもつけれど、望みがあります。
「眠っている」パウロはコリント人への手紙もこの言葉を使っています。

• 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。死のとげは罪である。罪の力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはないと、あなたがたは知っているからである。(コリント人への第一の手紙第15章50~58節)
死が眠りにたとえられています。
コリント人への手紙とテサロニケ人への第一の手紙に共通している言葉があります。
「ラッパ」、眠っている人のもとでラッパの音がする。
眠っている人を目覚めさせるためにラッパの音がする。
これは、絶対おきるだろう。
ラッパの音がコリント人への、テサロニケ人への慰めになっています。
眠り続けることがないようにラッパの音がしています。
もうひとつ、ラッパを鳴らせているのは、「天使のかしら」
それは誰?天使のかしらが登場しているのは

• その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。また地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」。(ダニエル書第12章1~4節)

旧約で唯一よみがえりが語られています。
悩みあるものへの慰めの言葉。大いなる君ミカエルが天使のかしら。
眠りから目覚めが語られています。

• 兄弟たちよ。その時期と場合とについては、書きおくる必要はない。あなたがた自身がよく知っているとおり、主の日は盗人が夜くるように来る。人々が平和だ無事だと言っているその矢先に、ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むように、突如として滅びが彼らをおそって来る。そして、それからのがれることは決してできない。
(テサロニケ人への第一の手紙第5章1~3節)

眠りの目覚めのラッパのことが鳴るときはわからない。
突然鳴るんだと言っています。
「突如」ここにしかない言葉です。
目覚めのラッパの時間はわからない、突然来るんだと言っています。
盗人の話をイエス様もしておられます。

• 腰に帯をしめ、あかりをともしていなさい。主人が婚宴から帰ってきて戸をたたくとき、すぐあけてあげようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰ってきたとき、目を覚しているのを見られる僕たちは、さいわいである。よく言っておく。主人が帯をしめて僕たちを食卓につかせ、進み寄って給仕をしてくれるであろう。主人が夜中ごろ、あるいは夜明けごろに帰ってきても、そうしているのを見られるなら、その人たちはさいわいである。このことを、わきまえているがよい。家の主人は、盗賊がいつごろ来るかわかっているなら、自分の家に押し入らせはしないであろう。あなたがたも用意していなさい。思いがけない時に人の子が来るからである」。(ルカによる福音書第12章35~40節)
予告して泥棒が来るならば準備するけれど、突然やってくる盗人。

しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が、盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう。

私たち、突然襲ってくるのは心配で心配で仕方ありません。
でもここでは心配ないと言っています。私たちは光の子なのだから突然襲われることはないと言っています。
「眠り」沢山出てくるけれど、前半の「眠り」と後半の「眠り」は違うギリシャ語が使われています。
前半はまさに「死」、でも慰めがあります。
後半は眠っていないで目覚めています。
前半の眠りは「主とともに」
後半の眠りも主と共に。
主と共に生きる、神様との関係。
前半、後半、共通するのは互いに慰め合う、人との関係。
神様との関係、前半後半
人との関係、前半後半
「慰める」他の日本語でも訳されています。

御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。(テサロニケ人への第一の手紙第2章12節)

ここでは「励ます」と訳されています。

わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、(3章2節)

ここでは「強め」と訳されています。

• 兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。(3章7)
慰める、同じ言葉で訳されています。

最後に、兄弟たちよ。わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める。あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかをわたしたちから学んだように、また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい。(4章1節)

ここでは「勧める」と訳されています。
慰める、励ます、は
互いに慰め合う、互いに強め合う、互いに励まし合う、互いに進め合う。
その交わりに私たちはまねかれています。
前半、後半、貫かれている神様の愛に生かされていることに感謝します。

2026年6月21日 6月第3主日礼拝「愛を増し加えて豊かにする主」• そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは...
26/06/2026

2026年6月21日 6月第3主日礼拝
「愛を増し加えて豊かにする主」

• そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、わたしたちだけがアテネに留まることに定め、わたしたちの兄弟で、キリストの福音における神の同労者テモテをつかわした。それは、あなたがたの信仰を強め、このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。あなたがたの知っているとおり、わたしたちは患難に会うように定められているのである。そして、あなたがたの所にいたとき、わたしたちがやがて患難に会うことをあらかじめ言っておいたが、あなたがたの知っているように、今そのとおりになったのである。そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。兄弟たちよ。それによって、わたしたちはあらゆる苦難と患難との中にありながら、あなたがたの信仰によって慰められた。なぜなら、あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら、わたしたちはいま生きることになるからである。ほんとうに、わたしたちの神のみまえで、あなたがたのことで喜ぶ大きな喜びのために、どんな感謝を神にささげたらよいだろうか。わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。どうか、わたしたちの父なる神ご自身と、わたしたちの主イエスとが、あなたがたのところへ行く道を、わたしたちに開いて下さるように。どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。(テサロニケ人への第一の手紙第3章)

手紙を書いているパウロたちのペンが止まらないというような場面です。
他人にいわれるのはおしゃべり野郎パウロ、おしゃべりがとまりません。
嬉しくてうれしくてたまらないのがこの3章です。
そこで、わたしたちはこれ以上耐えられなくなって、(1節)
そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、(5節)
あと2回、コリント人への手紙にもでてきます。
我慢できなくなったというパウロたちの言葉。
パウロたちが我慢していたこと、テサロニケの人たちと逢うこと。
会いたいという思い、会いたい会いたい、でも会えないから手紙でちょっと様子を知ろうという思いです。
私たちも逢いたいけれど、なかなか会えない人に手紙や電話やメールを送ることがあります。その思いは聖書の前の場面でもわかります。

• 兄弟たちよ。わたしたちは、しばらくの間、あなたがたから引き離されていたので――心においてではなく、からだだけではあるが――なおさら、あなたがたの顔を見たいと切にこいねがった。だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうとした。ことに、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、わたしたちはサタンに妨げられた。実際、わたしたちの主イエスの来臨にあたって、わたしたちの望みと喜びと誇の冠となるべき者は、あなたがたを外にして、だれがあるだろうか。あなたがたこそ、実にわたしたちのほまれであり、喜びである。(テサロニケ人への第一の手紙第2章17~20節)

会いたい、会いたい、でも何かしらの事情で逢えないと綴られています。だから相手に手紙をという場面です。

わたしたちは、あなたがたの顔を見、あなたがたの信仰の足りないところを補いたいと、日夜しきりに願っているのである。

ここにも顔を見たいと綴られています。
顔を見たい、別の言い方をすると、その人のことを心配している。
電話もできる、メールのやりとりも出来るけれど、直接顔を見て、一瞬でわかる。
それほどの思いになるテサロニケの人たちへの出会いと別れ。

• 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。ある人たちは納得がいって、パウロとシラスにしたがった。その中には、信心深いギリシヤ人が多数あり、貴婦人たちも少なくなかった。ところが、ユダヤ人たちは、それをねたんで、町をぶらついているならず者らを集めて暴動を起し、町を騒がせた。それからヤソンの家を襲い、ふたりを民衆の前にひっぱり出そうと、しきりに捜した。しかし、ふたりが見つからないので、ヤソンと兄弟たち数人を、市の当局者のところに引きずって行き、叫んで言った、「天下をかき回してきたこの人たちが、ここにもはいり込んでいます。その人たちをヤソンが自分の家に迎え入れました。この連中は、みなカイザルの詔勅にそむいて行動し、イエスという別の王がいるなどと言っています」。これを聞いて、群衆と市の当局者は不安に感じた。そして、ヤソンやほかの者たちから、保証金を取った上、彼らを釈放した。(使徒行伝第17章1~9節)

今日の聖書にある「患難」が繰り返されています。
パウロたちはそこを出てアテネへ向かっています。

そこで、兄弟たちはただちに、パウロとシラスとを、夜の間にベレヤへ送り出した。ふたりはベレヤに到着すると、ユダヤ人の会堂に行った。(使徒行伝第17章10節)

パウロたちは患難にあってアテネに行ったけれど、テサロニケの人たち、ヤソンさんたちはまだ患難の中にいます。ギリシャ人、貴婦人たちもいます。
テサロニケの患難の中に残されている人たちがいます。
それは心配、その人たちはどうなったんだろうか?
会いたい、会いたい、心配をしながらおつかいを出しました。
仲間のテモテをおつかいに出して、自分たちの代わりに顔を見てきてほしいと送りました。
手紙を書いている途中でテモテが帰ってきました。

ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。

患難にあっているテサロニケの人たちを心配して

このような患難の中にあって、動揺する者がひとりもないように励ますためであった。

患難の中で動揺する人が一人もいないようにテモテを送っています。
「動揺する」聖書でここにしかない言葉。ここにしかない言葉でテサロニケの人たちを心配しています。

そこで、わたしはこれ以上耐えられなくなって、もしや「試みる者」があなたがたを試み、そのためにわたしたちの労苦がむだになりはしないかと気づかって、あなたがたの信仰を知るために、彼をつかわしたのである。

ここに「試みる者」という言葉があります。
それはパウロたちも出会っています。

• だから、わたしたちは、あなたがたの所に行こうとした。ことに、このパウロは、一再ならず行こうとしたのである。それだのに、わたしたちはサタンに妨げられた。(テサロニケ人への第一の手紙第2章18節)

ここでは「サタン」と書かれています。
そのサタンはパウロたち、テサロニケの人たちだけでなく、イエス様も出会っています。

• さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。(マタイによる福音書第4章1~11節)

イエス様のところへも試みる者、サタンが来ています。
テサロニケへもサタンが来ていないか心配するパウロたち。
私たちのところへも試みる者が来ていないでしょうか?
試みる者にどうやって対処するのか?患難の中でどうやっていきるのか?
心配で心配でたまらない、でもテモテから「吉報が届けられた」
別の言い方をすると福音が届けられました。
患難の中で、「生きてます」福音を喜んで無事でしたと言っています。
それを知ってパウロが嬉しい、嬉しいと喜んでいます。
パウロたちが思っているのと同じようにテサロニケの人たちも思っています。
嬉しくて嬉しくてたまらない。
パウロたちが一番喜んだのは

ところが今テモテが、あなたがたの所からわたしたちのもとに帰ってきて、あなたがたの信仰と愛とについて知らせ、また、あなたがたがいつもわたしたちのことを覚え、わたしたちがあなたがたに会いたく思っていると同じように、わたしたちにしきりに会いたがっているという吉報をもたらした。

私たちはあなたたちに会いたいように、あなたたちも私たちに会いたいと思ってくれている。それが福音だ。信仰と愛によって生きている。患難の中で生きている。

どうか、主が、あなたがた相互の愛とすべての人に対する愛とを、わたしたちがあなたがたを愛する愛と同じように、増し加えて豊かにして下さるように。

愛、愛、愛、愛が繰り返されています。
あの人に会いたいという愛。
パウロたちの言葉によって患難、サタンに私たちも逢うけれど福音が届けられています。
皆さんはだれに会いたいでしょうか?思い浮かべているのはもしかしてすでに亡くなっている?そんな名前を思い浮かべるかもしれません。
愛とはなに?今日の言葉でひとつ言えるのは
「会いたい」
そこで愛を源として主の愛、増して加えて、豊かにして下さる主。
愛を与えてくださるのは主、神様は愛をたくさん持っておられます。
神様ご自身が私たちに会いたいと思って下さっている。
その愛にあふれる出来事が私たちに注がれています。
13節の終りにアァメンが書き加えられている聖書があります。私たちの関係にも祈りとして注がれています。

そして、どうか、わたしたちの主イエスが、そのすべての聖なる者と共にこられる時、神のみまえに、あなたがたの心を強め、清く、責められるところのない者にして下さるように。アァメン。

顔を見たい、会いたい、たくさんの愛を持つ神様が私たちを招いて下さっていることに感謝します。

2026年6月14日 6月第2主日礼拝「うちに働く神の言」• 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピ...
18/06/2026

2026年6月14日 6月第2主日礼拝
「うちに働く神の言」
• 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。兄弟たちよ。あなたがたはわたしたちの労苦と努力とを記憶していることであろう。すなわち、あなたがたのだれにも負担をかけまいと思って、日夜はたらきながら、あなたがたに神の福音を宣べ伝えた。あなたがたもあかしし、神もあかしして下さるように、わたしたちはあなたがた信者の前で、信心深く、正しく、責められるところがないように、生活をしたのである。そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として――事実そのとおりであるが――受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。(テサロニケ人への第一の手紙第2章1~13節)

梅雨の働きは雨を降らせること。
パウロたちの働きは福音、良い知らせを伝えること。
私たちもそれぞれの仕事、働きがあります。
職業とは違う働きがあります。
それが上手くいかない時もあります。パウロたちの仕事は福音を伝えることだけどうまくいかないことがありました。

それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、

仕事としての福音を語ることが上手くいかなかった。しかもそこでは苦しめられた。
「苦しめられた」実はここにしかない言葉です。
それどころが「はずかしめられた。」これは新約で5回だけど、仕事の中で苦しみと辱めを経験しました。

• そこで、わたしたちはトロアスから船出して、サモトラケに直航し、翌日ネアポリスに着いた。そこからピリピへ行った。これはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。わたしたちは、この町に数日間滞在した。ある安息日に、わたしたちは町の門を出て、祈り場があると思って、川のほとりに行った。そして、そこにすわり、集まってきた婦人たちに話をした。ところが、テアテラ市の紫布の商人で、神を敬うルデヤという婦人が聞いていた。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに耳を傾けさせた。そして、この婦人もその家族も、共にバプテスマを受けたが、その時、彼女は「もし、わたしを主を信じる者とお思いでしたら、どうぞ、わたしの家にきて泊まって下さい」と懇望し、しいてわたしたちをつれて行った。(使徒行伝第16章11~15節)

なかなか仕事が上手くいっているような…でしょうか?

• 群衆もいっせいに立って、ふたりを責めたてたので、長官たちはふたりの上着をはぎ取り、むちで打つことを命じた。それで、ふたりに何度もむちを加えさせたのち、獄に入れ、獄吏にしっかり番をするようにと命じた。獄吏はこの厳命を受けたので、ふたりを奥の獄屋に入れ、その足に足かせをしっかりとかけておいた。(使徒行伝第16章22~24節)

ピリピでこんな扱いを受けました。
福音を語る仕事、当初は良い経験をしたけれど、ああ、あの時、苦しみがあった。

• 一行は、アムピポリスとアポロニヤとをとおって、テサロニケに行った。ここにはユダヤ人の会堂があった。
• 2:使徒行伝/ 17章 02節
パウロは例によって、その会堂にはいって行って、三つの安息日にわたり、聖書に基いて彼らと論じ、
• 3:使徒行伝/ 17章 03節
キリストは必ず苦難を受け、そして死人の中からよみがえるべきこと、また「わたしがあなたがたに伝えているこのイエスこそは、キリストである」とのことを、説明もし論証もした。(使徒行伝第17章1~3節)

テサロニケに着いて、福音を語ることにしました。
ピリピでは苦しめられ裸にされ、獄に入れられた。
ピリピのことを考えてみたい。
苦しめられ、はずかしめられた。自分たちの仕事、働きが上手くいかなかった、失敗した。
人としてのパウロの経験は失敗した。
しかし神様側からするとどうなるのでしょうか?
うちに働く神様の言。
神様も働いている、仕事をしておられることになっています。

そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。

「働いてる」新約で何回も出てくる珍しい言葉ではないけれど、パウロたちが苦しめられたあのピリピで教会が生まれていました。
ピリピでの経験は失敗ではありませんでした。

わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。 13あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。 14すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。 15それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。 16このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。 17そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。 18同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。(ピリピ人への手紙第2章12~18節)

あの苦しめられて辱められて獄にいれられた、あのピリピに福音が育っていた。そのことをパウロは喜ぼうとしています、
そこに神様が喜んでおられる、があります、
私たちは願いを持つことが出来て、それを実現して下さる神様の働きがあります。
今日の聖書、パウロの口ぐせがあります。「無駄だったのかな?」
働いて走ってきたけど無駄だったのかな?

• 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。

むだではなかったのひとことで、「むだだったのかな?」の思いがわかります。
あなたの中に入って福音を伝えたのはむだだったのかな?」パウロの本音が見えます。
私たちもあんなに一生懸命やったのにむだだったのかな?と思うことがあります。
でもパウロは神様の側からいうと、むだじゃないと言っています。
それはパウロの働きではなく、神様の働きによるもの。
私たちに願いを起こさせそれを実現して下さる神様の働きがあります。

むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。

神様の言が働いた時、母と子のような関係が生まれます。
パウロたちが母でテサロニケの人たちが子供と口語訳では訳しているけれど、その逆の訳も出来る。両方の訳が出来る面白い言い方をパウロはしています。
「やさしくふるまった」それが神様の言が働いた時に生まれる出来事。

このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。

パウロたちはテサロニケの人たちを慕わしく思った。ここにしかない言葉です。
互いに慕わしく思う関係。
神様の言が働いた時に母と子のような優しく互いに慕わしく思う愛する関係が生まれます。

そして、あなたがたも知っているとおり、父がその子に対してするように、あなたがたのひとりびとりに対して、御国とその栄光とに召して下さった神のみこころにかなって歩くようにと、勧め、励まし、また、さとしたのである。

ここではお母さんではなくお父さん。
母として父として今年て、そんな関係に私たちはまねかれています。
改めて私たちは思います。
母の働きは何?子の働きは?父の働きは?
神様が働いておられるその現場。
梅雨の働きは雨を降らせること・
神様の働きはこの麗しい愛を生み出してくれるでしょうか?
私たちの働きは何?
神様の大きなわざによって、神様の働きによって私たちはやるべきことをこなしていける。そのあゆみに伴ってくださる主が働いて下さることに感謝します。

住所

小倉南区徳力6-10/6
Kitakyushu-shi, Fukuoka

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