28/05/2026
2026年5月17日 5月第3主日礼拝
「美しの門」
• さて、ペテロとヨハネとが、午後三時の祈のときに宮に上ろうとしていると、生れながら足のきかない男が、かかえられてきた。この男は、宮もうでに来る人々に施しをこうため、毎日、「美しの門」と呼ばれる宮の門のところに、置かれていた者である。彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
• 8:使徒行伝/ 03章 08節
踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
• 9:使徒行伝/ 03章 09節
民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、
• 10:使徒行伝/ 03章 10節
これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。(使徒行伝第3章1~10節)
この場面でいくつかの言葉に注目して命の言葉を辿りたいと思います。
一つ目、「見る」
彼は、ペテロとヨハネとが、宮にはいって行こうとしているのを見て、施しをこうた。
ここのはいって行こうとしているのを見て、の「見て」新約聖書で300回以上
ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
このじっと見るは14回。
民衆はみな、彼が歩き回り、また神をさんびしているのを見、
ここの賛美しているのを見、
新約聖書で130回くらい、よく出る言葉です。
いろんな「見る」があります。
私たちは何を見、じっと見ているでしょうか?
もうひとつ、 時に関する言葉がいくつかあります。
午後三時という時があります。これはちょっと置いておきたいと思います。
次に祈のとき、これも大切なとき。
そして「生れながら」直訳すると、母の胎から、生まれる前から。
その人にとって足のなえている生き方は何年でしょうか?
20年?30年?40年?彼にとって足がきかない時があります。
この人に関して、どんな思いで過ごしていたのでしょうか?
そして「毎日」とういときが記されています。
この男の人に人生に変化が訪れます。
毎日毎日嫌になっちゃうよの毎日、何十年?それはわからないけれど。
時がかわる場面。
ペテロとヨハネとは彼をじっと見て、「わたしたちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえるのだろうと期待して、ふたりに注目していると、
ペテロが言った、「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、踊りあがって立ち、歩き出した。そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、彼らと共に宮にはいって行った。
足のきかない毎日が、今日変わっていく、そんな時を迎えています。
こう言って彼の右手を取って起してやると、足と、くるぶしとが、立ちどころに強くなって、
「強くなって」強くなる、新約聖書で3回、使徒行伝しかない言葉、特別な時があります。
足とくるぶしが強くなった。新約聖書でここにしかない、彼に関してのみ使われています。
そして、歩き回ったり踊ったりして神をさんびしながら、
「踊ったり」新約聖書でここにしかない特別な時があります。
• ところが、ルステラに足のきかない人が、すわっていた。彼は生れながらの足なえで、歩いた経験が全くなかった。
• 9:使徒行伝/ 14章 09節
この人がパウロの語るのを聞いていたが、パウロは彼をじっと見て、いやされるほどの信仰が彼にあるのを認め、
• 10:使徒行伝/ 14章 10節
大声で「自分の足で、まっすぐに立ちなさい」と言った。すると彼は踊り上がって歩き出した。(使徒行伝第14章8~10節)
今日の場面にそっくりな場面があります。
それぞれに人生が大きく変化しているときがあります。
ああ、この二人、いいなあ、踊れる人生があっていいなと思う私がいるかもしれません。
私たちは愚痴をこぼすのをやめて聖書を開いてみたいと思います。
• イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。(ヨハネによる福音書第4章13~14節)
ここでの「わきあがる」が「踊りあがる」と同じ言葉です。
わたしたちにも踊りあがる水の約束があります。
踊りあがるであろう約束が与えられています。
生まれながらの毎日に変化が現れたとき
これが宮の「美しの門」のそばにすわって、施しをこうていた者であると知り、彼の身に起ったことについて、驚き怪しんだ。
ここの驚きは新約聖書で3回だけ。怪しむが7回。
なにより毎日毎日嫌になっちゃうよが、さんびに変わっています。
私たちは命の水がわきあがるときにまねかれています。
午後三時、皆さんにとってどんな時でしょうか?
いろんな午後三時があるけれど、ここでは祈のとき。
まだ教会はととのっで整っていない、神殿で祈る午後三時。
もう一回午後三時が出てきます。
• さて、カイザリヤにコルネリオという名の人がいた。イタリヤ隊と呼ばれた部隊の百卒長で、信心深く、家族一同と共に神を敬い、民に数々の施しをなし、絶えず神に祈をしていた。ある日の午後三時ごろ、神の使が彼のところにきて、「コルネリオよ」と呼ぶのを、幻ではっきり見た。彼は御使を見つめていたが、恐ろしくなって、「主よ、なんでございますか」と言った。すると御使が言った、「あなたの祈や施しは神のみ前にとどいて、おぼえられている。ついては今、ヨッパに人をやって、ペテロと呼ばれるシモンという人を招きなさい。この人は、海べに家をもつ皮なめしシモンという者の客となっている」。このお告げをした御使が立ち去ったのち、コルネリオは、僕ふたりと、部下の中で信心深い兵卒ひとりとを呼び、いっさいの事を説明して聞かせ、ヨッパへ送り出した。(使徒行伝第10章1~8節)
ここにも午後3時があります。神殿ではなく家の中だけど。
改めて午後三時、ルカにとって特別な時間。
ルカだけでなく、マタイもマルコも大切にしている午後3時があります。
• 時はもう昼の十二時ごろであったが、太陽は光を失い、全地は暗くなって、三時に及んだ。そして聖所の幕がまん中から裂けた。そのとき、イエスは声高く叫んで言われた、「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」。こう言ってついに息を引きとられた。百卒長はこの有様を見て、神をあがめ、「ほんとうに、この人は正しい人であった」と言った。この光景を見に集まってきた群衆も、これらの出来事を見て、みな胸を打ちながら帰って行った。すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。(ルカによる福音書第23章44~49節)
もう一つの午後三時があります。「見る」も繰り返し出てきます。
私たち午後三時、何を見るのでしょう。
イエス様の十字架を見る午後三時。
私たちの歌が毎日毎日嫌になっちゃうよの泳ぐたいやきくんではなく、賛美歌を歌う午後三時に変わっていきます。
そんな午後三時を思いながら、でもいやになっちゃうよが続いているでしょうか?
そしてもう一つの言葉、「美しの門」
辞書を開くとぴったりの言葉がないけれど、ギリシャ語では「時にかなった門にて」
午後三時は彼にとって時にかなった門にて、その時を迎えるまで20年?30年?
私たちも時にかなった門に座ってその時を待ちます。
時にかなった…
神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない。(伝道の書第3章11節)
神のなされることは皆その時にかなって美しい。
私たちは時にかなった門にて、いやになっちゃうよが讃美にかわる、時にかなった神様の御業を見てその時を待つことが与えられていることに感謝します。