みんなのお寺 淨願寺

みんなのお寺 淨願寺 赤ちゃんから看取りまで、みんなが集うお寺。
400年を越す歴史を持ち、国有形文化財に登録。地域に根ざした活動をしています。

29/07/2026

【熊本地震で被災された皆様へ】

この度の熊本地震により、犠牲となられた方々に謹んで哀悼の意を表しますとともに、ご遺族の皆様に心よりお悔やみ申し上げます。

また、被災された皆様、避難生活を余儀なくされている皆様に、深甚なるお見舞いを申し上げます。

相次ぐ余震の中で大変恐怖と混乱の渦中におられることと存じますが、まずは皆様の安全が確保されますことと、被害がこれ以上拡大しないことを心よりお祈り申し上げます。

合掌

 #子どものために  #子どもとともに  #自分自身のために  #有酸素運動  #ノルディックウオーキング
15/07/2026

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 #子どものために  #子どもとともに  #自分自身のために  #有酸素運動  #朝活
13/07/2026

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 #子どものために  #子どもとともに  #自分自身のために  #有酸素運動  #猛暑酷暑を乗り切れ💦
12/07/2026

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12/07/2026

犯罪被害者の人権を守るために――「みんなのお寺 淨願寺」住職が被害者支援センターを設立

手厚い法整備や更生プログラムが存在する「加害者支援」の陰で、突如として日常を奪われ、人権すらも見失われがちになる「被害者」の存在があります。この不条理な現実に正面から向き合うため、みんなのお寺 淨願寺のチャプレン(精神的ケアを担う聖職者)である住職が、新たに「被害者支援センター」を設立しました。

時を同じくして、先週から一般市民に向けて被害者支援への理解を深めるためのフィクションドラマ『さよならノワール』(フジテレビ系・火曜21:00)の放送がスタートしました。池袋を舞台に、小池栄子さんと北香那さんが演じるバディが犯罪被害者に寄り添い、その心の再生を支えていく警察ヒューマンドラマです。

ドラマの開始によって「被害者支援」という言葉に注目が集まる今だからこそ、私たちはフィクションの世界だけに留まらず、実際の現場で行われているリアルな活動を何よりも大切にしていかなければなりません。

突然の不条理に苦しむ被害者やそのご家族が、尊厳を取り戻し、孤立せずに生きていける社会へ。当センターは、ドラマの描く理想と共鳴しながらも、現実の過酷な現場に徹底して寄り添い、実効性のある手厚い支援を続けてまいります。

12/07/2026

念仏行の回復——浄土真宗への問いかけ

はじめに
一つの問いから始めたいと思います。
あなたは今日、念仏を称えましたか。
声に出して、
「南無阿弥陀仏」と
称えましたか。
この問いに、
すぐに「はい」と答えられる
真宗信者が、
今、どれほどいるでしょうか。
浄土真宗の行は、念仏です。
「南無阿弥陀仏」と称えること。
それが根本の行であるはずです。
しかし現代の真宗寺院を見渡すと、
念仏を称えることよりも、
法話を聴くことが
中心になっています。
聴聞することが、
真宗の行であるかのように
定着しています。
これは、いつから始まったのか。
なぜ、こうなってしまったのか。
そして、何が失われたのか。
この問いを、
真剣に考えなければならない時が
来ていると思います。

一、親鸞聖人が受け取ったもの
親鸞聖人は、
法然上人のもとを訪ねました。
「いかにすべきか」
その問いへの答えを
親鸞聖人自身が
『歎異抄』にこう記しています。

「親鸞におきては、
ただ念仏して、
弥陀にたすけられまいらすべしと、
よきひと(法然)の仰せをこうむりて、
信ずるほかに別の子細なきなり」

法然上人から受け取ったのは、
議論でも書物の解説でもなく、
「ただ念仏せよ」
という一点でした。
親鸞聖人はこの言葉を、
生涯手放しませんでした。
『教行信証』行巻には
こう記されています。

「大行とは、
すなわち無碍光如来の名を
称するなり」

大いなる行とは、
名を称えることである。
念仏は親鸞聖人にとって、
行の中心でした。
これは揺るぎない事実です。

二、念仏行の本来の道筋
念仏行には、本来の道筋があります。
まず、自力で称え始めます。
称え続けるうちに、
自分の煩悩の深さが見えてきます。
自力の限界が、身に染みてわかってきます。
その絶望のような気づきの中で、
他力の信心に出遇います。
「称える」が
「称えさせられる」に変わる瞬間。
これが信心の転換です。
そしてその後の念仏は変わります。
往生のための念仏から、
報恩・感謝の念仏へ。
称えることなしに、この道は歩めません。
聴くだけでは、出遇えません。
親鸞聖人の「聞」という言葉は、
法話を耳で聴くことではありませんでした。
『教行信証』信巻にこうあります。

「聞というは、
衆生、仏願の生起本末を
聞きて、疑心あることなし、
これを聞というなり」

仏の願いを、
全存在で、
疑いなく受け取ること。
それが親鸞聖人の「聞」でした。

三、いつから、なぜ変わったのか
この道筋が、
歴史の中で少しずつ
失われていきました。

蓮如上人以降——聴聞文化の始まり
蓮如上人は真宗を
民衆に広めるために
御文章を書かれました。
そして「講」という
集まりの場を作られました。
人々が集まり、
御文章を聴く場です。
蓮如上人にとって聴聞は、
念仏へと向かうための
入口でした。
しかし後の世に、
その入口が
目的地になりました。
聴くことが、
行そのものとして
定着していきました。

江戸時代——制度による固定化
江戸幕府の寺請制度により、
寺院は行政機関としての
役割を担うようになりました。
僧侶は念仏行者から
「法話をする者」へと変わりました。
民衆は念仏行者から
「聴く者」へと変わりました。
念仏は生活の中心から、
葬儀と法事の儀礼へと
縮んでいきました。
この構造が、
二百年以上続きました。

明治以降——知性主義化
近代になり、
親鸞聖人の思想は
大学で哲学・倫理として
研究されるようになりました。
「聞」という概念が
教義的に深められましたが、
同時に「聴聞すること」が
真宗の行として
正当化されていきました。
念仏を称えなくても、
書物を読み、
法話を聴けば、
教義を語れる僧侶が
生まれていきました。
体験なしに、
「理解」だけが積み重なりました。

四、今、何が失われているのか
この長い歴史の変遷の末に、
現代の真宗信者の多くは
こういう状態になっています。
書物を読みます。
聴聞します。
「理解した」と思います。
それを「信心」と呼びます。
しかし、念仏を称えません。
だから、体験が生まれません。
体験がないから、語れません。
これは信心ではありません。
これは知識です。
最も深刻なのは、
そのことに気づいていないことです。
聴聞することへの
疑いがありません。
「念仏を称えなくても、
真宗の信心はある」と
思い込んでいます。
しかし親鸞聖人は、
念仏を称えない信心を
想定していませんでした。
法然上人から受け取ったのは、
「ただ念仏せよ」
という一言でした。

五、体験が語られなくなった
もう一つの深刻な問題があります。
信心体験が
語られなくなりました。
本来、真宗には
こういう連鎖がありました。
体験した者が語る。
その言葉が縁になる。
次の者が念仏を称える。
その者が体験する。
また語り伝える。
この連鎖が切れました。
聴聞文化の中では、
語るのは僧侶だけです。
信者は聴くだけです。
自らの信心体験を
語る場がありません。
語る習慣がありません。
やがて、
体験そのものが
生まれなくなりました。
親鸞聖人の言葉が
「書物の言葉」になりました。
体験から絞り出された
血の滲む言葉が、
研究の対象になりました。
文字は見えても、
血が見えない。
これが現代真宗の
最も深い問題です。

六、念仏行の回復へ
では、どうすればよいのか。
答えは、
親鸞聖人が示した道に
帰ることです。
まず、称えること。
朝と夕に、
声に出して念仏を称える。
「南無阿弥陀仏」
難しく考えなくていいです。
まず称えることです。
称えることで、
身体が変わります。
呼吸が変わります。
自分の煩悩の深さが
見えてきます。
聴聞はその後でいいのです。
称えることが先です。
体験を語ること。
「私はこのようにして、
光に出遇いました」
この一言が、
どんな法話よりも
人の心に届きます。
体験から出た言葉だけが、
次の人の念仏の縁に
なります。
僧侶自身が念仏行者であること。
法話の準備をする前に、
坐って称える。
体験なしに、
体験へと導くことは
できません。
火を持たない者が、
火を灯すことは
できません。

おわりに
聴聞は、念仏に帰るための道です。
念仏の代わりではありません。
蓮如上人の御文章も、
法話も、説教も、
すべては人を念仏へと
向かわせるための「縁」です。
縁が目的になったとき、
真宗は形骸化します。
法然上人から親鸞聖人へと
手渡された言葉は、
「ただ念仏せよ」
でした。
この一本の道に、
今こそ立ち返るべき時です。
称えることから、すべては始まります。
南無阿弥陀仏

 #子どものために  #子どもとともに  #自分自身のために  #有酸素運動  #梅雨明け間近
07/07/2026

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梅雨明けまでもう少しでしょうか? 暑い夏がもうすぐそこでしょうね♪ 今年もお寺の池に睡蓮の花が咲きはじめています。どうぞ皆様お越しください。合掌
05/07/2026

梅雨明けまでもう少しでしょうか? 暑い夏がもうすぐそこでしょうね♪

今年もお寺の池に睡蓮の花が咲きはじめています。

どうぞ皆様お越しください。合掌

【開催レポート】お坊さんのゆる~いお話:第2回「余命6ヶ月を生きる」今日、ホテルを会場に「お坊さんのゆる~いお話:第2回」を開催いたしました。今回は定員を大きく上回るお申し込みをいただき、皆さまの関心の高さがうかがえる特別な回となりました。...
24/06/2026

【開催レポート】お坊さんのゆる~いお話:第2回「余命6ヶ月を生きる」

今日、ホテルを会場に「お坊さんのゆる~いお話:第2回」を開催いたしました。今回は定員を大きく上回るお申し込みをいただき、皆さまの関心の高さがうかがえる特別な回となりました。

今回のお題は「余命6ヶ月」。
一見重く感じられるテーマですが、前半と後半の2つのワークショップを通して、参加者の皆さまと共に「生と死」について深く見つめ直しました。

前半:カードがひらく、和やかな対話
前半は「もしバナゲーム(もしものための話し合いゲーム)」を行いました。カードを使って「自分にとって大切な価値観」を選び、語り合うワークショップです。会場は終始、和やかで緩やかな空気に包まれ、皆さま笑顔でゲームに参加されていました。

後半:一転して訪れた、生々しい「死の体験」
休憩を挟んで迎えた後半のワークショップ。テーマは「死の体験旅行」です。
皆さまにはまず、心の中にある「一番大切なもの・人」「絶対に失いたくないもの・誰か」を紙に書き出していただきました。
そして、その直後のことです。
私が皆さまの目の前で、その「大切なものが書かれた紙」を次々と破り捨てていきました。
会場には動揺が走り、「なんでそんな酷いことをするの!」「心がしんどい」「もうやめてほしい」といった悲痛な声が飛び交いました。突然訪れた「喪失」に対する、ごく自然でリアルな拒絶反応です。
騒然とする会場の中で、私は皆さまに静かに語りかけました。

「今、皆さんが身をもって経験されていること。これこそが、まさしく『死の体験』そのものなのです。大切なものが強制的に奪われていく苦しみ、お分かりいただけますか?」
死とは、頭の中の理屈で理解できるものではありません。自分の意思とは関係なく、あらゆる大切なものと強制的に引き離されるプロセスだからです。

結び:呼吸でつなぐ生と死
ワークショップの締めくくりとして、全員で瞑想を行いました。
テーマは「生と死の呼吸」。息を吸って生き、息を吐いて死なせていく。一呼吸ごとに、自らの身で生死を体験していただく時間です。
静寂ののち、ワークショップが終了すると、会場からは割れんばかりの盛大な拍手をいただくことができました。皆さまの心に、深い気づきが生まれた瞬間でした。

最後に
「生と死」の本質は、当事者として身をもって体験していかなければ、決して理解することはできません。頭で考えるだけでは、到底届かない領域です。
だからこそ、そこにアプローチするために「坐禅」があり「念仏」があります。
今回皆さまと共有したこの体験と気づきを、これからも大切にしていきたいと思っております。

合掌

17/06/2026

文字は見えても、
対話ができても、
血が見えない。

これが現在の浄土真宗!

住所

和歌山県
Kinokawa-shi, Wakayama
649-6428

営業時間

月曜日 09:00 - 17:00
火曜日 09:00 - 17:00
水曜日 09:00 - 17:00
木曜日 09:00 - 17:00
金曜日 09:00 - 17:00
土曜日 09:00 - 17:00
日曜日 09:00 - 17:00

電話番号

+818045994848

ウェブサイト

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