ULC Japan ユニバーサルキリスト教会の公式アカウントです。

12/05/2026

ヘナト・カルドソ監督牧師 著

「あなたの人生が21日間で変わる-ヨハネの福音書の挑戦」

ヨハネの福音書10章 - ロバより愚かだ

この章におけるイエスの主な目的は、神の真の代表者と偽りの代表者、また神の真の追随者と偽者を区別することを人々に教えることです。彼はこれを羊飼いと羊の関係の例で説明しています。

そこにいて人々と共にその演説を聞いていたファリサイ派人たちは、自分たちが地上における神の真の代表者であると信じていました。彼らは人々がイエスを詐欺師として拒否することを望んでいたのです。そこからイエスは人々の目を開き、真実と偽りを見分けて区別する方法を教えました:

真の羊飼い
・戸口から入り、あなたには権利と権限があるので、隠すものは何もありません。
・誠実な人なら誰でもあなたの声を認識します。
・神に属するものは誰でも神に従う。
・人々の前に出て、人々を守り、人々のために戦う。
・彼は人々の利益だけを望み、人々が完全な人生を送れるように自分自身を犠牲にします。
・人々のために自分の命を捧げる。

偽りの羊飼い
・招かれていないのに、泥棒のように窓から勝手に入る。
・不注意な人や嘘が好きな人は自分の声を好む
・神に属するものは彼から遠ざかる。
・状況が自分にとって不利になると、彼は人を見捨てる
・人のものやお金が欲しいなら、自分のために犠牲をすることを躊躇しない
・自分の人生の方を心配している

非常に多くの牧師、使徒、監督牧師、宣教師、伝道者、あれこれの奉仕者が数多く存在する今日、私たちはこれ以上にこの識別を必要としています。誰が誰?誰が自分で任命したのか、誰が神に任命されたのか?悪人を善人から区別するにはどうすれば良いのですか?主イエスご自身が与えてくださった上記の項目がそのヒントを与えてくれます。

しかし、偽のリーダーが存在する唯一の理由は、偽の追随者が存在するからであることにも注意してください。

イエスは、自分の羊であるものは誰でも、自分の声を知っており、従うが、盗人の声が奇妙であることに気づき、彼から逃げだすとはっきりと言われました。神ご自身がイザヤ書1章3節で次のように述べています。

牛は飼い主を知り/ろばは主人の飼い葉桶を知っている。しかし、イスラエルは知らず/わたしの民は見分けない。イザヤ書/ 1章 3節

動物ですら飼い主を知っていますが、人間は神を認識しません。今ではスマートフォンでも持ち主の声や指紋を認識するようになっています。機械や動物は人間よりも知能が高くなっているようです。

偽物から逃げていますか?あなたの真の羊飼いの声に従ったことがありますか?

12/05/2026

エジル•マセド監督 著 「365日間の私たちの糧」

良いほう

「彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」」
‭‭ルカによる福音書‬ ‭10‬:‭39‬-‭42

主イエスは、マルタの焦りや忙しさを少しも重視されませんでした。
彼女が主に仕えるために家のことをしていたことも、問題にはされませんでした。

マルタは、主の教えを聞くことよりも、自分の行いによって仕えることを選びました。
主に喜んでいただきたかったのです。
自分のしていることを認めてもらいたかったのです。

一方、妹のマリアは、ほかのすべてを忘れていました。
ただ主の言葉を聞き、その教えを学びたいと願っていました。
彼女は学びたかったのです。
主が望まれる者になりたかったのです。

そして、まさに彼女こそが主を喜ばせました。
なぜなら、彼女は主が望まれることを望んだからです。

主は教えたいと願っておられました。
人々を神の国へ導き、その考え方を変えたいと願っておられました。

マリアもまた、学びたいと願っていました。
神の国に入り、自分の考え方を変えたいと願っていたのです。

必要なものは多くありません。
いや、ただ一つだけです。
それは、主の教えを聞くことです。

神の御言葉を実践するなら、ほかのすべてを成し遂げることができます。

なぜ思い煩うのでしょうか。
なぜ心配するのでしょうか。

良い方を選んだ者から、それが取り去られることは決してありません。

12/05/2026
05/05/2026

エジル•マセド監督 著 「365日間の私たちの糧」

126日目
5月6日

あなたは既に警告されています

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはいけません。わたしは、平和ではなく剣をもたらすために来ました。わたしは、人をその父に、娘をその母に、嫁をその姑に逆らわせるために来たのです。そのようにして家の者たちがその人の敵となるのです。」(マタイの福音書 10:34-36 新改訳2017)

主イエスは、真理を示すためにおいでになりました。もし、あなたが自分の一番身近な人に失望されても、驚くことはありません。身近であればあるほど、感情の繋がりも強くなります。感情の繋がりが強ければ強いほど、あなたを動揺させやすいのです。だからこそ、自分の心を守りなさい。悪はいつも、あなたに一番身近な人を通してあなたに接触しようとしてきます。そして神もまた、あなたに一番身近な人を通してあなたに近づこうとなさいます。あなたが目で見える区別は、目に見えない区別を映し出しています。目に見える戦いとは、目に見えない霊的な戦いの影に過ぎません。神のみことばは剣です。正しいことと間違っていることをはっきりと区別し、真実の人々と真実を聞きたくない人々との間に対立を引き起こします。

信じる人は、もはやこの世のものではなく、この世の者は、この世のものではない者を憎むのです。私たちに約束されている安らぎとは、意識の内での安らぎです。表面的には、私たちは戦いが約束されています。直面する迫害や失望に心を乱されることなく、一人ひとりが自分の剣を手に取りなさい。

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。」(マタイの福音書 10:37,38)

あなたが他の人を愛したり、気にかけたりしてはいけないという意味ではなく、自分の優先順位を正しく定めるようにという意味です。神に喜んでいただくことは、人に喜ばれることよりも重要です。神がどうお思いになるかは、人がどう思うかよりも重要です。自分の十字架を背負うということは、神を優先することであり、神への愛と引き換えにこの世への愛着を犠牲にすることです。知恵のある人は、遅かれ早かれ、この導きに従うことになります。

私たちの戦いとは霊的な戦いのことです。

04/05/2026

エジル•マセド監督 著 「365日間の私たちの糧」

「ずうずうしい人」

「傲慢な者はわたしを甚だしく見下しますが わたしはあなたの律法から離れません。」
‭‭詩編‬ ‭119‬:‭51

信じない人が信じる人を理解できないのは自然なことです。彼らは私たちが神の言葉を恥じるべきかのように嘲ります。しかし、本当に賢い人は、人に喜ばれることよりも神に喜ばれることの方がはるかに価値があると知っています。今日嘲っている人たち自身も、心の平安がなく、夜も眠れず、自分だけが知っている空虚さを抱え、それを冗談で隠しています。

もう一つの高慢な人たちのグループは教会の中にいます。彼らは「そういうものではない」と言って、純粋な人々を愚かに感じさせようとします。長年教会にいながら、ただ思いのままに漕ぎ続け、神の約束の成就がまるで魔法のように天から降ってくるのを待っています。彼らが本当に助けられるのは、自分に助けが必要だと認めたときだけです。主イエスは、自分が失われた存在だと認める人、すなわちへりくだった誠実な人を救うことができるのです。

神の言葉のゆえに迫害される人は、その言葉によって生きています。彼は愛する御言葉から離れることはありません。なぜなら、自分が誰を信じているかを知っているからです。信じる人はその信仰を受け入れ、約束の実を刈り取ります。どんな代価を払ってでも、誰にどう思われようとも前に進み、誰にも脅かされることはありません。
「私は福音を恥としません。それは、信じるすべての人に救いをもたらす神の力だからです。」(ローマ人への手紙1章16節)

どうして神の力を恥じることができるでしょうか。どうして失われた人を救うものを恥じることができるでしょうか。高慢な者や嘲る者は、その無知の中にとどまるがよいのです。ダビデを嘲った人たちは何かを得たでしょうか。しかしダビデは神に祝福された王として、戦いに勝利し、敵の軍勢を打ち破り、驚くべき勝利を重ね、ついには救いの確信を持って平安のうちに生涯を終えました。

どんな代価を払ってでも前に進みなさい。誰に何を言われようとも。

03/05/2026

「あなたの人生を変える21日間- ヨハネの福音書の挑戦」- ヘナト・カルドソ監督牧師 著

ヨハネの福音書1章 - 脇役


この福音書の著者ヨハネは、イエスの12人の弟子の1人でした。彼を、この本の1章や何度かで言及されているもう一人のヨハネ、洗礼者ヨハネと混合しないでください。この福音書全体で名前が出てくるよはねは二人だけです。一人目は洗礼者であり、もう一人は偶然ですが使徒ペトロの父親です。

興味深いのは、著者でありイエスの弟子であるヨハネが、本の中で一度も自分の名前を挙げていないことです。彼は「そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った」。ヨハネによる福音書/ 20章 3節、「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた」。(ヨハネによる福音書/ 13章 23節)、とのみ呼ばれていました。

自分の名前を隠そうとするこの意図的な努力は、この弟子について、そして主イエスに出会った時に人々に何が起こったかを雄弁に物語っています。彼らはもはやこの世で自分自身を高める必要はなく、主イエスを高めて他の人に仕えることだけが必要だと考えているかのようでした。ヨハネは主イエスを福音の焦点とする際に、このことをはっきりと示しています。彼自身に関しては、ただ「愛された」弟子であることに満足していました。他に何のために?

福音の説教者たちが、教会の正面、テレビ、印刷物、その他多くの場所に自分の名前を載せるために超自然的な努力をしているように見える時代に、「もう一人の弟子」がしたことは、今日の私たちにとって神聖な風を吹き込むものです。

神との真の出会いがあれば、誇りたい、人に認められたいという欲望はすべて消えます。人々があなたを見てくれなかったり、見下したり、あなたについて悪く言ったりしても、もう腹を立てる必要はありません。あなたが主イエスの弟子であり、種があなたを愛していると確信しているという事実で十分です。

ですから、あなたの努力はすべて、人々に主を知ってもらうためなのです。彼が主人公です。あなたは、ただの脇役です。そしてそれは何と大きな特権でしょう。

誰かに無視されたり、認められなかったりして腹を立てたことがありますか?これから何をしたらいいと思いますか?ヨハネの福音書1章を読んでいる時、聖霊側にどんなことをあなたに語りかけましたか?

03/05/2026
01/05/2026

エジル•マセド監督 著 「365日間の私たちの糧」

122日目
5月2日

きっぱりと

「どうして、昔のほうが 今より良かったのか」と言ってはならない。このような問いは、知恵によるのではない。」(伝道者の書 7:10 新改訳2017)

前を見なさい。今こそ、きっぱりと前を見なさい!あなたが過去にこだわっている間に、時間はどんどん過ぎ去っていきます。時間は待ってくれることなく、あなたが新しいことをするチャンスは失われていきます。過去を変えることはできません。もう既に存在しないものを取り戻すことはできません。昔の方が今よりも良かったと思うのは無意味です。将来もっと良いものを刈り取るために、今日良いものを植えるのが賢いことです。

あなたが過去を振り返るには2つの方法があります。1つ目は、起きてしまったことを思い出して、それに関して自分が何もできなかったという事実に苦しみ、良いことも悪いことも思い出して苦しむことです。それによってあなたは過去の失敗とか、既に終わってしまった不幸な状況の原因となった記憶の奴隷や、感情の奴隷になってしまいます。そうしてあなたは、もう存在しない時間の中で身動きが取れなくなってしまうのです。

あなたの過去を振り返る 2つ目の方法は、過去の経験から学んで、その教訓を今の自分に生かすことです。もしそれが良い経験なら、アーメン。その教訓を学び、前に進みなさい。これからもっと良い経験ができるでしょう。もしそれが悪い経験だったとしても、それはもう終わったことだということを思い出しなさい。それを乗り越えて、赦して、忘れなさい。もうそれを終わらせなさい。次のページをめくりなさい。

あなたが過去のことを考えると、あなたの意識は過去へと引き戻されます。あなたの身体は今ここにあるのに、あなたの意識は別の場所にあるなら、どうやって前に進めるというのですか?信仰とは、前を向くことです。モーセが死んだとき、神は遠回しな言い方をされず、このように仰せられました。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け。」(ヨシュア記 1:2)モーセは亡くなりました。過ぎたことは過ぎたことです。今こそ立ち上がりなさい。まだやらなくてはならないことがたくさんあるのですから。

信仰とは目を前に向けることです。

29/04/2026

エジル•マセド監督 著 「365日間の私たちの糧」

新しい人生

4月30日

ユダの家よ、イスラエルの家よ あなたたちは、かつて諸国の間で呪いとなったが 今やわたしが救い出すので あなたたちは祝福となる。 恐れてはならない。勇気を出すがよい。(ゼカリヤ書‬ ‭8‬:‭13)

ニコデモは非の打ちどころのない宗教的な生活を送っていましたが、主イエスからこう言われました。
「まことに、まことにあなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」(ヨハネ3:3)。

それは彼には理解しがたいことでした。
「人は老いていながら、どうして生まれることができるでしょうか。もう一度母の胎に入って生まれることができるでしょうか」(ヨハネ3:4)。

ニコデモの理解はまだ完全に肉的なものでした。主イエスは答えられました。
「まことに、まことにあなたに言います。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません」(ヨハネ3:5)。

新しく生まれるとは、単なる習慣や宗教の変更ではなく、人格の深い変化です。新しい人になることです。新しい心、新しい思い、新しい人生観。神の子として、父なる神の性質を持つ者となることです。これは神の御霊だけが成し遂げることができます。だからこそ、全力で御霊を求めなければなりません。

このようにして、かつては呪いであった者が祝福へと変えられます。単に祝福された者になるのではなく、その人自身が祝福となるのです。人格が変わり、やがて最良の子どもと見なされ、立派な市民となり、模範的な父となり、素晴らしい母となり、理想的な妻となり、模範的な夫となり、優れた職業人となるでしょう。

これは人が到達し得る最大の奇跡です。そしてそれは信じる者すべてに開かれています。自分の人生を差し出し、新しい命と引き換える決断をする者に与えられるのです。

生まれることは容易ではありません。成長することも同様です。しかし、この新しい機会を受け入れ、やり直す決断をする者には約束が与えられています。もはや自分のやり方ではなく、神のやり方によって。

この約束は、自分を委ねる者すべてに与えられています。

住所

中央区龍禅寺町 622
Hamamatsu-shi, Shizuoka
4300924

電話番号

+818032194360

ウェブサイト

アラート

ULC Japanがニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

共有する