茗荷谷キリスト教会

茗荷谷キリスト教会 プロテスタント・バプテスト教会 東京メトロ丸ノ内線茗荷谷駅から徒歩1分にあるアクセスの便利なところで、毎週日曜日に行う礼拝をはじめ、平日の様々な集会を行っています。お気軽にお越しください。お待ちしております。

09/08/2026
08/08/2026

聖書の言葉から 2026/8/9 牧師 平尾輝明

「死者が復活しないなら」
死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のためにバプテスマなど受けるのですか。1コリント15:29

 復活の希望がなければ、バプテスマ自体の価値がなくなります。そもそもバプテスマは、私達の復活の先取りのしるしでもあるからです。バプテスマは、イエス様の十字架の死にあずかって古い自分が水に浸されて死に、イエス様の復活にあずかって水から上がり新しく生かされることを象徴するしるしです。もし私達の復活がないなら、私達の復活の先取りのしるしでもあるバプテスマの意味がなくなります。
 復活の希望がなければ、この世の人生がすべてとなります。それは、死の恐怖から逃げ回ることになります。そのような人生は空しいものです。肉の命より大切なものを見いだした時、肉体の死を必要以上に恐れなくなります。私達は復活の希望が与えられています。人生の危機において、ただ単に肉の命を守ろうとするのか、神様の御心に従おうとするのか、という厳しい選択を迫られる時、復活の希望に生きている者は、正しい判断をする勇気を与えられます。復活の命への希望を見つめているならば、もっと広い視野によって、大切なことを見分けるようになります。たとえ志半ばにして肉の命を失うことになったとしても、なお希望と喜びを失いません。そして、慰めと平安の内に、この世の人生を終えることができるのです。
 私達は、十字架と復活のイエス様を救い主と信じ、バプテスマを受け、喜びの永遠の命を体験し、罪の赦しの恵みと、復活の希望に生きる者とされています。復活を信じられるかどうかは、神様が人間を造ったか、人間が神を造り出したか、どちらを信じているかに、かかっているとも言えるのではないでしょうか。

02/08/2026

聖書の言葉から 2026/8/2 牧師 平尾輝明

「主が共に進まれる」
心ひるむな。恐れるな。慌てるな。彼らの前にうろたえるな。あなたたちの神、主が共に進み、敵と戦って勝利を賜るからである。申命記20:3-4

 「主が共に進まれる」とき、私達も一歩を踏み出します。それは、私達は何もしなくてよいという意味ではありません。恐れながらも、前に進みます。ここに信仰の大切な姿があります。信仰とは、恐れが完全になくなってから歩き出すことではありません。恐れを抱えたまま、主と共に一歩を踏み出すことです。私達は「不安がなくなったら始めよう。」「自信が持てたら進もう。」「準備が完全に整ったら行動しよう。」と考えるかもしれません。人生において、すべての不安がなくなることはありません。完璧に準備が整うこともありません。すべての情報を得て、理解したから進むのではありません。主が共におられるから進みます。もちろん、慎重に考えることは必要です。無謀になってはいけません。しかし、恐れによって一歩も踏み出せなくなるなら、私達は主の導きを見失うことになります。大切なのは、その恐れの中で、誰を見ているかです。
 「主が共におられる」とは、問題がなくなることではありません。敵対する者はいます。困難はあります。恐れの原因そのものはなくなりません。信仰とは、「問題がなくなることを信じること」ではありません。信仰とは、問題のただ中にあっても、主が共におられることを信じることです。問題はまだそこにある。しかし、私達は一人ではありません。恐れはまだある。しかし、主が共におられます。道はまだ見えない。しかし、主が共に進まれるのです。教会も、未来に対して恐れを抱くことがあります。教会員の高齢化。財政的な課題。私達は、「この先、教会はどうなるのだろう」と考えることがあります。私達が教会を支えているのではなく、主が教会を支えて導かれるのです。だから、教会は恐れの中でも歩むことができます。主が共に進まれるからです。

25/07/2026

聖書の言葉から 2026/7/26 牧師 平尾輝明

「思いを一つにして」
あなたがたに幾らかでも、キリストによる励まし、愛の慰め、"霊"による交わり、それに慈しみや憐れみの心があるなら、同じ思いとなり、同じ愛を抱き、心を合わせ、思いを一つにして、わたしの喜びを満たしてください。フィリピ2:1-2

 「思いを一つにする」ことは、全員が同じ意見になるということではありません。全員が同じ性格になることでもありません。教会は頭であるイエス様がいなければ、ばらばらになってしまう群れです。そのイエス様を信じる信仰に導いてくださるのが聖霊です。私達は聖霊による交わりを通して、思いを一つにされているのです。
 キリストによる励ましは、神様がイエス様において、人々に与える励ましです。イエス様は十字架にかかり命をかけてまで私達の罪を赦してくださいました。私達は罪赦されたものとして生かされています。互いに同じイエス様によって罪赦されたものどうしであることを知るところに励ましがあり、私達の思いが一つにされているのです。
 神様はそのひとり子イエス様を与えるほどに私達を愛してくださっています。神様の愛にならって、私達は互いに愛し合うのです。愛することによって心からの慰めが与えられます。互いに愛し合い、相手を思いやることによって、一人ひとり異なる私達の思いが一つとされているのです。
 聖霊と私達一人ひとりの間に、交わりが与えられています。私達が交わろうと努力するのではありません。聖霊を通した招きをただ受け入れるのです。聖霊に導かれて、神様と私だけでなく、私達、人の間にも利害関係のない交わりが与えられます。私達は、聖霊による交わりをとおして、イエス様を救い主と信じ、主にあって思いを一つとされているのです。いずれも、私達の意志や努力に基づくものではありません。私達は、三位一体の神によって思いを一つにされているのです。

18/07/2026

聖書の言葉から 2026/7/19 牧師 平尾輝明

「まことの自由」
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。ヨハネ8:32

 イエス様が語られた自由は、政治的自由でも、経済的自由でもありません。もっと深く、人間の存在そのものに関わる自由です。真理と訳されている単語は「隠れていない」という意味を持っています。イエス様が語られた真理とは、神様を明らかにするイエス様御自身です。イエス様ご自身が、神様そのものを現されたのです。そして「自由にする」とは、一般に奴隷を解放することを示します。「真理はあなたたちを自由にする」とは、イエス様はあなたたちを罪の奴隷状態から解放するという意味です。
 人はイエス様と出合うまで、自分が罪人であるということを知りません。誰にも支配されていないと思っている時にこそ、実は罪に支配されているのです。自分の判断で、自由になろうとして、まさに神様から離れていくことこそ、人間の罪だと聖書は語っています。罪の力、神様に敵対する力の支配下にある者は罪の奴隷です。自らの罪に気づくこともなく、神様の必要性も感じない状態です。この罪の奴隷状態にある者が、イエス様によって自由になるのです。
 神の子であるイエス様によって、自由にされ、罪から解放された者は、イエス様の言葉にとどまる者です。イエス様と一緒にいつまでも父なる神様との交わりに生きるようになることで、完全に罪の奴隷状態からの解放が実現しています。この神様の自由の中に生きること、これが救われるということです。それなのに、人はその神様から自由になろうとします。そして、何をしていても一体何のためにしているのか分からなくなります。人は神様との交わりの中で生きるために造られているから当然です。神様の栄光のためにしているからこそ、すべてにおいて意味があるのです。神様と共に生きる時に、希望と喜びがあふれ出てくるのです。

11/07/2026

聖書の言葉から 2026/7/12 牧師 平尾輝明

「神がすべて」
すべてが御子に服従するとき、御子自身も、すべてを御自分に服従させてくださった方に服従されます。神がすべてにおいてすべてとなられるためです。 1コリント15:28

 神様がすべてを造り、すべてを愛し、すべてを支配されています。神様を信じきれない罪にまみれた人間のために、神様はイエス様を遣わされました。イエス様が私達の罪を全て背負って死なれたことによって、罪は赦されました。また、神様は、イエス様を死の支配から解放して、復活させられたことによって、私達にも新しい命に生きる希望を与えてられています。神様が人を創造されたとき、死はありませんでした。死は神様以外を優先した罪によって入り込んだものです。人がどんなに頑張っても、打ち勝つことができない死の力をも神様が滅ぼされるのです。復活のイエス様がもう一度こられる時に、私達は死に打ち勝ち、復活させられます。この世の死は、終わりではありません。悲しみの向こうに復活があり、希望があります。
 神様から託された救いの完成をイエス様は成し遂げ、神様にささげられます。イエス様ご自身も、父なる神様に服従されることによって、父なる神様がすべてにおいてすべてとなられるのです。それは、神の国、神様の恵みの支配がすべてにおいて実現されている状態です。神様とすべてのものが正しい関係に回復される状態です。すべての人において、神様が満ち満ちてくださる状態です。
 私達は復活、救いの完成を待ち望んでいます。キリストの復活は、神様の恵みの支配の始まりです。罪の赦しも永遠の命も、既に与えられています。それでも、まだ救いの完成は成し遂げられていません。だからこそ、私達は希望を持って、主の祈りで祈ります。「御国を来たらせたまえ」と。御国、神の国、神様の恵みの支配がすべてにおいて実現する状態です。私達は、救いの完成を信じているからこそ、今を誠実に生きるのです。

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