日本バプテスト連盟 東山キリスト教会

日本バプテスト連盟 東山キリスト教会 東山教会は、バプテスト派のキリスト教会です。1962年4月1日、星崎礼司・あさの宣教師夫妻たちによって種蒔かれ、誕生した教会です。

08/09/2026

9/8(火) Ns一日一章 マルコ10章
イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。(21節より)

 どうすれば永遠の命を得られるのか。どうすれば、救われるのだろうか。人間にとっての永遠の命題です。

 このことについて真剣に考え、悩んでいる人に向けて、イエス様は勧められます。まず持っている物を売り払い、貧しい人に施すようにと。

 イエス様のまなざしは、どこまでもあたたかい。そして、この人への心からの憐みに満ちています。

 そして「それから、わたしに従いなさい。」との言葉には、期待が込められています。

 声かけられた人は、失望し、悲しみながら立ち去りました。自分には出来ないと思ったからです。

 しかし、私はイエス様の御心を思います。この人はいつかきっと戻って来る。従う者となる日が来るのだと。

 イエス様は、この人に期待しておられるのです。そして、私たち一人ひとりに対しても。

06/09/2026

9/7(月) Ns一日一章 マルコ9章
イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。(29節)

 祈りには力がある。このことを、29節の一節は、雄弁に物語っています。

 主イエスの弟子たちは、無力を味わい、途方に暮れていました。なぜ、自分たちはイエス様のような力ある業を行うことが出来ないのかと。

 目の前に苦しむ子どもがいて、それに心痛める親たち、周囲の人々の悲しみを前にして、自分たちは何もできなかった。

 無力や挫折は、人を謙虚にさせます。そして、神様への期待を持つ者へと成長させるのです。

 イエス様は、祈りの力を弟子たちにはっきりと告げられました。祈りが大切なのだよと、教えられたのです。

 今日、私たちは、様々な場面で祈りをささげてまいります。その時、傍らに主がおられ、支えて下さることを信じて、祈りの力を信じて、祈りをささげましょう。

06/09/2026

9/6(日) Ns一日一章 マルコ8章
するとイエスは、御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。(30節)

 マルコ福音書の描くイエス様は、容易に弟子をほめることはされない。むしろ、戒められるということに気づきました。

 他の福音書がほめるイエス様を描くからと言って、マルコが違うのか。そうではなく、イエス様がそもそも人間の持つ弱さということを実によく分かって下さっているからだ、と言えるのではないでしょうか。

 ほめられるとすぐ有頂天になり、間違いを犯してしまう。傲慢に陥ってしまう。

 そう云う弱さを、つまづきを、起こさせないように、容易にはほめない。おだてない。

 そうではなく、本当にイエス様は、救い主なのだと分かった事実をしっかりと心の内に温めていくように、勧めておられる。

 だからほめない。そして、覚悟を強めるよう、励まされる。「十字架を背負って従ってきなさい」(34節)と。

 この道は厳しい、狭い、しかし、中に入って見ると、驚くほどに広く、救いがある。喜びがある。充実感がある。

 信仰生活の奥義ということを、イエス様は、弟子たち一人ひとりに伝えたいと、切に願われたのだと、マルコ福音書から感じました。皆さんは、どうでしょうか。

05/09/2026

9/5(土) Ns一日一章 マルコ7章
そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。(34節より)

 「エッファタ、開け」。この言葉を語りかけられた人は、耳が聞こえず、口がきけない人でした。

 ガリラヤ湖のほとりで、この人はイエス様と向き合いました。

 イエス様はこの人の両耳に指を差し入れ、唾をつけて、その人の舌に触れられました。続いて、「エッファタ」と言われた途端に、耳が聞こえるようになり、舌のもつれが解けて、話をすることができるようになったというのです。

 7章全体、伝統的なユダヤ教の価値観にがんじがらめに縛り付けられた人々との対話や、ギリシャ系の女性との出会いが記されています。

 ギリシャ系の女性との出会いが、後のイエス様の伝道活動に深く関わることは確かで、女性が、というよりも、イエス様の方が解放されていくのです。

 とらわれからの解放。イエス様は、わたしたちの目と耳と口、そして、心をも、古い価値観から解き放ってくださいます。

 今日、私たちの前にはどんな神様の恵みが広がっているでしょうか。

03/09/2026

9/4(金) Ns一日一章 マルコ6章
イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。(31節より)

 休むことをついためらったり、罪悪感を感じたりすることはありませんか。

 イエス様は、リトリート(退修)のお勧めを与えられます。福音宣教の労苦を味わって、心も体も休みを必要としているでしょう、と弟子たちをねぎらったのです。

 ところが、この様子を知って、多くの人々は追いかけて来た。

 群衆を御覧になって、イエス様は「飼い主のいない羊のような有様を深く憐み」=はらわた千切れるような思いを味わって、「いろいろ教え始められた」とあります。

 なぜ人里離れた場所で、5千人の給食が行われたのか、そのきっかけは、弟子の休息の為であった。そして、群衆が追いかけて来たからだったのだと腑に落ちました。

 一番の理由は、イエス様の憐みのゆえ。御言葉を聞くためについて来た人たちを空腹のまま解散させてはかわいそうだと思われたから。

 神様の愛と憐みが、5千人の給食のお話しには、あふれているのですね。

 今日も、この愛に支えられて一日を歩んでまいりましょう。

02/09/2026

9/3(木) Ns一日一章 マルコ5章
「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。」(20節)

 その人、レギオンという名の悪霊に取りつかれた男の人です。誰も彼を押しとどめることができず、自分でもどうしようもなく、苦しんでいた人。

 この人に会いに主イエスはゲラサ人の地方へと向かい、この人は、イエス様に会うことに恐れをなしました。

 この人本人は、喜んでいたかもしれませんが、この人の内に巣くった悪霊が、それを喜ばなかったのです。

 悪霊の姿も、居場所を失った孤立した存在に映るのですが、男の人そのものが、孤独の人。自ら選んだ孤独ではなく、周囲から見放された人、見捨てられた人であったのでしょう。

 ですから、本当は自分の家やコミュニティには戻りたくなかったはずです。しかし、イエス様は、そこへ戻って、神様がなさった奇跡を証しするよう、促されるのです。

 男の人は、このイエス様の言葉に聴き従います。これが証し人、主の弟子の生き様なのだと感じました。

 過去を捨て、ではなく、過去の傷を背負いつつ、今を生きる。主と共に歩む。そこに、主の恵みが注がれることを信じて。

02/09/2026

9/2(水) Ns一日一章 マルコ4章
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。」(14節)

 種まく人、それは誰なのか。誰なのか語られずに、蒔く人が、何を蒔くのかが明らかに語られているところに、面白さがあると感じました。

 種まく人。最初の人は、イエス・キリストだろう。では次に種まく人は、弟子たちだろうか。御言葉の種をまかれた人だろう。

 そうやって幾つもの年月を重ねて、今自分は、種まく人になっているのか。まだ蒔かれたままで、芽が出ていない者だろうか。

 それとも蒔かれた種は芽を出して、実を結んでいるだろうか。そして、この実から新たな種は生み出されているだろうか。

 たとえは分かり易いようで、実は奥深く、謎めいている。豊かな実を結ぶために、種をまかれたのであれば、そうなるに違いない、とも思う。そう信じたい。

 神の国が、私から、私の周りからも、どんどん広がっていくならば、それはどんなに幸いな事だろうか。心からそう願います。

31/08/2026

9/1(火) Ns一日一章 マルコ3章
イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まってきた。(13節)

 3章は、弟子の召命(calling)の箇所です。イエス様が、これと思う人々は、どんな人であったのか。

 個性豊かな面々です。長所も短所も分かった上で、イエス様は声をかけられました。そして、12人も、自分の意思でイエス様のところへ向かって行きました。

 両者の間にあるのは、信頼の心。互いを大切に思い合う愛があって、この関係は成り立ちます。

 託されたことは何か。まず、イエス様のそばにいること。イエス様の心の安定のために、彼らの存在は不可欠でした。

 次に、派遣して宣教する為。お世話係が必要であったのではなく、イエス様が一人ではできないことを、自分と共に、時には、自分に代わってしてもらう為。

 さらには、困っている人に仕える為。悪霊に悩まされ、病気で苦しむ人を解放して差し上げることは、イエス様が、大事に取り組んできた働きです。

 私たちもイエス様から声をかけて頂いた存在です。今日も、イエス様は、私たちがお応えすることを期待して、見守ってくださっています。

30/08/2026

8/31(月) Ns一日一章 マルコ2章
「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(17節より)

 イエス・キリストは、17節の言葉どおり実行されました。

 人々はイエス様に関して、言いたいことを言います。同じ人が仮面を取り換えるように、時に賛美を、時に陰口をたたく人すらいました。

 それは人の心が複雑で、場合により、とらえがたいほど病んでいるからです。

 イエス様はそれをよく分かった上で、病める人、罪びとを救うために来て下さいました。

 そして、過去の暗闇に生きるのではなく、現在・未来の神様の御国のうちに歩むようにと招き入れて下さいました。

 ですから、私たちも、古い人として生きるのでなく、新しいぶどう酒は新しい革袋におさめて、今日、新たな一歩を踏み出していきたいと思います。

30/08/2026

8/30(日) Ns一日一章 マルコ1章
「それから、”霊”はイエスを荒れ野に送り出した。」(12節)

 可愛い子には旅をさせよ、の如く、神様は、聖霊の導きにおいて、イエス・キリストを荒れ野へと送り出されます。

 荒れ野でサタンからの誘惑を受けられたイエス様は、40日間、どんな思いで過ごしておられたのでしょうか。

 そこで野獣が共にいました。そこに、天使たちが主イエスに仕えていました。

 私たちがいる世界、これは、一体どんな世界なのでしょうか。悪に満ちた世界なのか、それとも、神様の最善に満ちあふれた聖なる世界なのか。

 野獣と天使が共存する世界。聖と悪が混在となった世界、そして、これが神様の恵みに満ちた日々でありつつ、試練と隣り合わせた苦しみも伴う人生。

 それでも、私たちの世界には、神様の恵みがある。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」。

 イエス様の呼びかけに、お応えしていきましょう。ここに神の国がある。私たちのいる世界に、私たちのただ中に、イエス様が共にいて下さるかぎり。

 今週も神様の恵みがお一人おひとりと共にございますように。

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