18/01/2025
本日の礼拝説教を公開します。
パレスチナでようやく本格的な休戦を迎えました。
これから終戦、また人道を重視した交渉がなされることを切に祈ります。
パレスチナ問題の中で、キリスト教の一部では、
どういうわけか、どうしても、
終末や来臨の問題が取り上げられます。
しかしそのように終末を考えることが良いのでしょうか。
来臨を通して見つめるべきことは、そんな事なのでしょうか。
そんなことを取り上げています。
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2025年1月19日礼拝説教「すべての人に必ず訪れるもの」ルカ21:7-19
本文
パレスチナでの戦争が、ようやく休戦を迎えました。
このまま、本格的な終戦へと、また人道を重視した交渉がなされることを切に祈ります。
ここ200年ほどの間に流行している、一部のキリスト教での悪しき伝統があります。
パレスチナでの戦争を、終末やキリストの来臨と結び付けて考えることです。
でもそういった読み方は誤りです。
むしろそんな表層的な読み方以上に、
今日の箇所はわたしたちの信仰に、重要な示唆を与えてくれる所です。
今日は終末と、わたしたちがイエスさまの来臨を通して約束されている恵みを考えます。
さて今日の聖書の言葉を読んでみましょう。
先週わたしたちが読んだところで、
イエスさまは、エルサレム神殿の崩壊を預言されました。
神殿は当時のユダヤの人々の誇りを表す建物でした。
神殿の崩壊は、もちろんエルサレムの荒廃や死や苦しみと重なることです。
神殿が滅びると語られるなら、多くの人が不安を覚えることは当然です。
だからこのような問いかけから、今日の問答は始まります。(ルカ21:7-19)
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスさまは答えられます。
「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。
こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
イエスさまは神殿の崩壊、戦争や暴動が、終末のしるしではない、と言われるのでした。
わたしたちの目はどうしても、世界や国が、滅びるか滅びないか。
そんなことに捕らわれてしまいます。
ですが、それが本当の問題ではないのです。
「そのような苦難は起こるに決まっている。」
この言葉は、わたしたちを辛い気持ちにさせます。
言われていることは、神殿の崩壊です。
それはおそらくユダヤの人々が考えうる、もっとも決定的な苦しみと死。
自分の死のみならず、民族としての尊厳や存在の死なのでした。
人は苦しみや死を恐れ、逃れようとするがゆえに、もがきます。
しかしその罪の愚かさのゆえに、人間は滅びを免れることができないのです。
イスラエルの人々の行ってきたことは、わたしたちにそんな人間の根源的姿を示します。
ですがイエスさまが、その信仰において問題とするのはもっと別のことでした。
イエスさまは続けてこう言われます。
「そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな
地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や
牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたに
とって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに
授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には
殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは
命をかち取りなさい。」 」
その時、為すべきことがある。
そうイエスさまははっきりと告げられるのでした。
その時、為すべきことがある。何をするかは授けられる。
そこまでにあなたがたは裏切られ、傷つけられ、憎まれる。
中には殺される者もいる。
しかしその中で、為すべきことがある。そうイエスさまは言われるのです。
だから「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」。
さて今日のところから考えてみてください。
すべての人に必ず訪れるものは何でしょう。逃れられないものは何でしょう。
言われていることは、神殿の崩壊です。
しかし神殿の崩壊そのものだけが問題なのではありません。
もし神殿のみが問題なら、2000年後を生きるわたしたちにはあまりに縁遠い出来事です。
ここで言われていること、考えなければならないことは、そうではないのです。
それは苦しみであり、死です。
またその原因としての人間の罪深さが問題です。
その象徴として神殿の崩壊が預言され、またそのとおりに破壊されたのでした。
神さまの前での人間の罪深さはそのように逃れようのないものです。
キリスト教ではこの人間の根源的事実の中に、神の前での死の闇を見ます。
ですがイエスさまはもう一つの事柄をも示されました。
それは何だったでしょう。
イエスさまはそれらの苦難の中で、しかし信仰を耐え抜く人の姿を語られます。
それは決して簡単ではない。
しかしわたしたちは「命をかち取りなさい」。
そう。わたしたちには、苦難の中にあってもこのいのちが示されているのでした。
このいのちとはいったい何でしょう。
この世の死によっても、苦難によっても、尊厳を奪う呪いによっても、
損なわれることのない、真の永遠のいのちとは何でしょう。
しかしイエスさまは、このいのちのことをはっきりと語られます。
それがいったいどんな恵みなのかは、現在のわたしたちにはまだわかりません。
またその時に、一体どんな正義がなされるのかもわかりません。
しかしそれは今地上に表れていなくとも、必ず実現するものとして、約束されている。
それは来る日に、完全な形で実現する。
このことこそが教会の希望なのです。
このことをわたしたちに引き寄せて考えてみましょう。
わたしたちも、世の理不尽に向き合いながら生きています。
神殿の崩壊ではなくとも、苦しみは耐えがたいものです。
病気、事故、災難、犯罪。これらはわたしたちの、この世の尊厳を奪うものです。
その中でわたしたち自身も罪を犯してしまうことがあります。
人を傷つけ、疑い、自分さえ助かれば、楽をできれば得をできればと考えてしまいます。
人は、罪を犯すことなく生きることはできません。
そして最後には必ず、死を迎える。わたしたちは罪深い。生きている意味などない。
それがこの世の目でわたしたちが知っている、世界の唯一絶対の真実です。
でも、今日のイエスさまの言葉を前にするとき、もう一つのことが示されます。
確かにわたしたちは罪深い。生きている意味などない。
しかしそのわたしたちにイエスさまは何と言われたでしょう。
「あなたがたは命をかち取りなさい。」
わたしたちに命が与えられる。イエスさまはそう言われるのです。
わたしたちは死ぬ。しかしその死を超える、まことのいのちを与えられている。
それはわたしたちの死や罪の事実を超える、本当の神の恵みの事実です。
イエスさまは信仰の目を通して、
わたしたちにもう一つの、そして本当の恵みの真実、いのちの真実を示されているのです。
教会ではよく復活や来臨という言葉が使われます。
これらの言葉を通して、信仰者たちが見つめ信じてきたことはこの事なのです。
神さまが与えてくださる恵みが、
イエスさまに連なって与えられるものであり、わたしたちの真のいのちです。
それはわたしたちの死や罪を超えて、わたしたちを生かすものです。
今日も明日も永遠に。
またその恵みは、この世において死が絶対である以上に、
来る日には、このいのちこそがわたしたちに内にあって、絶対です。
このいのちのゆえに今この世界においても、わたしたちは新たに生きる者とされます。
神さまの前に、新たに生きる者とされています。
わたしたちはこの神さまの真実の前に立ち、
この恵みが与えられていることに応答しましょう。
信仰は、この神さまからの恵み、いのち応答を通して、
わたしたちの中で育まれていくでしょう。