仙台富沢キリスト教会

仙台富沢キリスト教会 日本ナザレン教団所属
プロテスタント福音主義の教会です。

23/03/2026
18/01/2025

本日の礼拝説教を公開します。
パレスチナでようやく本格的な休戦を迎えました。
これから終戦、また人道を重視した交渉がなされることを切に祈ります。

パレスチナ問題の中で、キリスト教の一部では、
どういうわけか、どうしても、
終末や来臨の問題が取り上げられます。
しかしそのように終末を考えることが良いのでしょうか。
来臨を通して見つめるべきことは、そんな事なのでしょうか。
そんなことを取り上げています。

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2025年1月19日礼拝説教「すべての人に必ず訪れるもの」ルカ21:7-19

本文

パレスチナでの戦争が、ようやく休戦を迎えました。
このまま、本格的な終戦へと、また人道を重視した交渉がなされることを切に祈ります。
ここ200年ほどの間に流行している、一部のキリスト教での悪しき伝統があります。
パレスチナでの戦争を、終末やキリストの来臨と結び付けて考えることです。
でもそういった読み方は誤りです。
むしろそんな表層的な読み方以上に、
今日の箇所はわたしたちの信仰に、重要な示唆を与えてくれる所です。
今日は終末と、わたしたちがイエスさまの来臨を通して約束されている恵みを考えます。

さて今日の聖書の言葉を読んでみましょう。
先週わたしたちが読んだところで、
イエスさまは、エルサレム神殿の崩壊を預言されました。
神殿は当時のユダヤの人々の誇りを表す建物でした。
神殿の崩壊は、もちろんエルサレムの荒廃や死や苦しみと重なることです。
神殿が滅びると語られるなら、多くの人が不安を覚えることは当然です。
だからこのような問いかけから、今日の問答は始まります。(ルカ21:7-19)
そこで、彼らはイエスに尋ねた。「先生、では、そのことはいつ起こるのですか。
また、そのことが起こるときには、どんな徴があるのですか。」
イエスさまは答えられます。
「イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』とか、『時が近づいた』とか言うが、ついて行ってはならない。戦争とか暴動のことを聞いても、おびえてはならない。
こういうことがまず起こるに決まっているが、世の終わりはすぐには来ないからである。」
イエスさまは神殿の崩壊、戦争や暴動が、終末のしるしではない、と言われるのでした。
わたしたちの目はどうしても、世界や国が、滅びるか滅びないか。
そんなことに捕らわれてしまいます。
ですが、それが本当の問題ではないのです。
「そのような苦難は起こるに決まっている。」
この言葉は、わたしたちを辛い気持ちにさせます。
言われていることは、神殿の崩壊です。
それはおそらくユダヤの人々が考えうる、もっとも決定的な苦しみと死。
自分の死のみならず、民族としての尊厳や存在の死なのでした。
人は苦しみや死を恐れ、逃れようとするがゆえに、もがきます。
しかしその罪の愚かさのゆえに、人間は滅びを免れることができないのです。
イスラエルの人々の行ってきたことは、わたしたちにそんな人間の根源的姿を示します。

ですがイエスさまが、その信仰において問題とするのはもっと別のことでした。
イエスさまは続けてこう言われます。
「そして更に、言われた。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がる。そして、大きな
地震があり、方々に飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れる。
しかし、これらのことがすべて起こる前に、人々はあなたがたに手を下して迫害し、会堂や
牢に引き渡し、わたしの名のために王や総督の前に引っ張って行く。それはあなたがたに
とって証しをする機会となる。だから、前もって弁明の準備をするまいと、心に決めなさい。
どんな反対者でも、対抗も反論もできないような言葉と知恵を、わたしがあなたがたに
授けるからである。あなたがたは親、兄弟、親族、友人にまで裏切られる。中には
殺される者もいる。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。
しかし、あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは
命をかち取りなさい。」 」
その時、為すべきことがある。
そうイエスさまははっきりと告げられるのでした。
その時、為すべきことがある。何をするかは授けられる。
そこまでにあなたがたは裏切られ、傷つけられ、憎まれる。
中には殺される者もいる。
しかしその中で、為すべきことがある。そうイエスさまは言われるのです。
だから「忍耐によって、あなたがたは命をかち取りなさい」。

さて今日のところから考えてみてください。
すべての人に必ず訪れるものは何でしょう。逃れられないものは何でしょう。
言われていることは、神殿の崩壊です。
しかし神殿の崩壊そのものだけが問題なのではありません。
もし神殿のみが問題なら、2000年後を生きるわたしたちにはあまりに縁遠い出来事です。
ここで言われていること、考えなければならないことは、そうではないのです。
それは苦しみであり、死です。
またその原因としての人間の罪深さが問題です。
その象徴として神殿の崩壊が預言され、またそのとおりに破壊されたのでした。
神さまの前での人間の罪深さはそのように逃れようのないものです。
キリスト教ではこの人間の根源的事実の中に、神の前での死の闇を見ます。

ですがイエスさまはもう一つの事柄をも示されました。
それは何だったでしょう。
イエスさまはそれらの苦難の中で、しかし信仰を耐え抜く人の姿を語られます。
それは決して簡単ではない。
しかしわたしたちは「命をかち取りなさい」。
そう。わたしたちには、苦難の中にあってもこのいのちが示されているのでした。
このいのちとはいったい何でしょう。
この世の死によっても、苦難によっても、尊厳を奪う呪いによっても、
損なわれることのない、真の永遠のいのちとは何でしょう。
しかしイエスさまは、このいのちのことをはっきりと語られます。
それがいったいどんな恵みなのかは、現在のわたしたちにはまだわかりません。
またその時に、一体どんな正義がなされるのかもわかりません。
しかしそれは今地上に表れていなくとも、必ず実現するものとして、約束されている。
それは来る日に、完全な形で実現する。
このことこそが教会の希望なのです。

このことをわたしたちに引き寄せて考えてみましょう。
わたしたちも、世の理不尽に向き合いながら生きています。
神殿の崩壊ではなくとも、苦しみは耐えがたいものです。
病気、事故、災難、犯罪。これらはわたしたちの、この世の尊厳を奪うものです。
その中でわたしたち自身も罪を犯してしまうことがあります。
人を傷つけ、疑い、自分さえ助かれば、楽をできれば得をできればと考えてしまいます。
人は、罪を犯すことなく生きることはできません。
そして最後には必ず、死を迎える。わたしたちは罪深い。生きている意味などない。
それがこの世の目でわたしたちが知っている、世界の唯一絶対の真実です。
でも、今日のイエスさまの言葉を前にするとき、もう一つのことが示されます。
確かにわたしたちは罪深い。生きている意味などない。
しかしそのわたしたちにイエスさまは何と言われたでしょう。
「あなたがたは命をかち取りなさい。」
わたしたちに命が与えられる。イエスさまはそう言われるのです。
わたしたちは死ぬ。しかしその死を超える、まことのいのちを与えられている。
それはわたしたちの死や罪の事実を超える、本当の神の恵みの事実です。
イエスさまは信仰の目を通して、
わたしたちにもう一つの、そして本当の恵みの真実、いのちの真実を示されているのです。

教会ではよく復活や来臨という言葉が使われます。
これらの言葉を通して、信仰者たちが見つめ信じてきたことはこの事なのです。
神さまが与えてくださる恵みが、
イエスさまに連なって与えられるものであり、わたしたちの真のいのちです。
それはわたしたちの死や罪を超えて、わたしたちを生かすものです。
今日も明日も永遠に。
またその恵みは、この世において死が絶対である以上に、
来る日には、このいのちこそがわたしたちに内にあって、絶対です。
このいのちのゆえに今この世界においても、わたしたちは新たに生きる者とされます。
神さまの前に、新たに生きる者とされています。
わたしたちはこの神さまの真実の前に立ち、
この恵みが与えられていることに応答しましょう。
信仰は、この神さまからの恵み、いのち応答を通して、
わたしたちの中で育まれていくでしょう。

明日の礼拝説教を公開します。クリスマスの祝福がありますように。わたしたちの世界に、クリスマスの出来事を通して示された、「平和への祈り」が実現することを待ち望みます。--------------------2024年12月5日礼拝説教「一番遠...
21/12/2024

明日の礼拝説教を公開します。
クリスマスの祝福がありますように。
わたしたちの世界に、クリスマスの出来事を通して示された、「平和への祈り」が実現することを待ち望みます。

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2024年12月5日礼拝説教「一番遠いところから」マタイ2:1-2

本文
クリスマスおめでとうございます。
今日読んだ聖書の物語、
マタイ福音書のクリスマスの物語の主人公は東の方からやってきた学者たちです。
彼らは遠い遠い国からやってきました。
現代のわたしたちの「旅行」とは違います。
飛行機も車もない時代です。それは果てしない道のりだったでしょう。
行きの道でも、何日もかかります。途中でホテルや旅館があるわけでもありません。
行く先の民家でお世話になることが出来るなら考えられない幸運。
でもきっとその道中の多くは野宿で夜を明かしたことでしょう。
そして目的地に着いてから、同じだけの労力がかかる帰りの道が待っています。
彼らは辛い旅路を乗り越え、イエスさまに贈り物を持ってきて、捧げたのでした。
喜びと共に、世界中で何度も読まれている、聖書の物語でした。
東の方からやってくる。
それは当時の人が考えられる「世界の果て」、「一番遠いところ」からやってきた。
それが今日の物語の第一の意味ということになります。

しかし今日はこの「一番遠いところから」ということのもう一つの意味を考えたいのです。
今日の説教動画のお知らせのメールに、聖書協会共同訳の巻末の地図を添付しました。
そちらをご覧ください。
イエスさまの生まれたイスラエルの国は、当時のローマ世界の中でどこにあるでしょう。
・・・
地図の色の濃い部分が当時のローマ帝国です。
ローマは地中海世界を制覇することで、当時の世界を治めていました。
そしてその境は、絶えず異民族の侵略を跳ね返すための最前線だったのです。
イエスさまが生まれた2000年前のイスラエルは、ローマ帝国の東の端にあります。
当時のイスラエルは、ローマ帝国の要衝でした。
東にあるのはパルティア、つまり古代イランの、ローマとは別の帝国です。
イエスさまが生まれる僅か30年余り前まで、イスラエルを含む西アジアの大部分は、
このパルティアのものでした。
イエスさまが十字架で亡くなってから、数十年の後にも戦争が起こります。
つまり激しい領土争いの戦争が継続的に繰り広げられていたのです。(計8回)
だからイスラエルには、東世界の侵攻からローマを守る最前線の基地の役割がありました。
もう一度聖書の物語を読みます。(マタイ2:1-2)
「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」

博士たちは遠い東の国からやってきました。
そうです。
博士たちがやってきた東の国とは単なる外国ではないのです。
ただ距離が遠いだけの国ではないのです。
博士とは、ローマ帝国の東から、つまり、戦争の敵の国からやって来た人々だったのです。
はたしてわたしたちはそんなことが言えるでしょうか。
今、ウクライナにロシアから、
イスラエルにイランから、パレスチナから、レバノンから、
共にクリスマスを祝いに、訪れる。そんな事が可能でしょうか。
「共に祝おう!」 そんなことが言えるでしょうか。

しかし博士たちは、そんな遠い遠いところから、やってきたのです。
いくつもの障害を越えて。
どうして彼らはやってきたのでしょう。やってくることができたのでしょう。
いえ、それ以上に、彼らはどうして、一緒に喜ぶことができたのでしょう。
その時、神さまが示された喜びとは、希望とは何だったのか。
神さまはその時、一つの不思議な星の導きの中に、
一人の小さな赤子のいのちの輝きの中に、その喜びと希望が託されたのでした。
そう聖書に記されています。
その不思議さを思います。
集まった人々が、それぞれの違いを超えて、その中に何かを見出したのです。

クリスマスが近づいています。
わたしたちはどうしたらクリスマスの喜びを共に祝うことができるのか。
それはまさに現代のわたしたちの課題です。とても難しい、「一番遠い」課題です。
わたしたちはどうしたらクリスマスの喜びを共に祝うことができるのか。
ですがだからこそ、聖書の物語がそうであったように、クリスマスを、
イエスさまの誕生の中に示された、神様が示してくださった喜びと希望を、
わたしたちが共に喜ぶことができますように、祈りたいと思います。

「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」」
祈りましょう。
〇祈り
神さま、どうか今日の聖書の物語に描かれたように、
わたしたちが、互いにどんなに遠くにいても、
あなたが示してくださった御子の喜びと希望のもとに、
共に集い、共に喜び、共に祝うことができますように。
クリスマスの喜びが、わたしたちにとってそのような喜びでありますように。
主の御名によって祈ります。

03/11/2024

今日の説教を公開します。

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2024年11月3日礼拝説教「どのように聖書に向き合うのか」ルカ20:27-40

本文

キリスト教会にとって、特にプロテスタント教会にとって、聖書は重要です。
わたしたちは聖書が神の霊感によって書かれたと信じています。
わたしたちの信仰の、揺らぐことのない基準です。
ですがわたしたちは、この聖書にいくつもの矛盾がある事も知っています。
こういった矛盾は、見なかったことにしたり、無理やりの理屈で納得するものでしょうか。
わたしたちは、どのように聖書に向き合うように、示されているのでしょう。
今日の聖書の物語は、まさにそんなことを問題としています。
今日の物語を味わってみましょう。

エルサレムに入られたイエスさまは、多くの人々と語り合うことになりました。
その中には、イエスさまに反感を持っていた人々も少なくなかったようです。
今日登場する、サドカイ派の人々もそんなグループでした。
サドカイ派は聖書、特にモーセ五書を絶対の基準としていました。
その律法の中に、今日の問題の矛盾があったのです。
兄弟が死んだとき、その妻をどうするのか。弟たちが娶らなければならないはずだ。
ではその妻は、神の国では誰の妻なのか。そんな質問です。(関連、申命記25章)
彼らはなぜこんな質問をしたのでしょう。
これが彼らの真剣な疑問だったのでしょうか。それとも言葉遊びでしょうか。
もしかするとイエスさまを、律法を無視する狂信者として陥れようとしたのかもしれません。
物語だけで、彼らの心中を推し量ることはできませんが、
ただこの事は指摘することができるでしょう。
彼らは、言葉に縛られていました。
聖書の言葉を真剣に読み、その中に神の御心を見出そうとすることは大切です。
わたしたちが理解できないことや呑み込みがたいことが示されることも、ままあります。
そんな事にまず、自らを捨てて向き合うことは、大切です。
しかし彼らは、そのことを優先するあまり、あまりに硬直化してしまっています。
言葉に縛られてしまっているのです。
はたして、神の言葉とは、そのように人間を縛るためのものなのでしょうか。
神さまがわたしたちに、聖書を通して御心を示してくださるとは、そういうことなのでしょうか。

聖書の始めの五書を、特に「トーラー」「律法」と呼びます。
このはじめの五書が、旧約聖書の中でも特に大切だと考えられているからです。
ただ日本語でこの題名を読む時、わたしたちは少し勘違いをしているかもしれません。
「律法」は、「法律」をひっくり返した言葉になっています。
律法は法律のように、あるいはそれ以上に厳格な、宗教上の戒律である。
そんな風にわたしたちは感じているかもしれません。
実際に、五書を読んでみるとわたしたちの印象は変わるはずです。
五書には、さまざまな物語が記されています。
天地創造、人間と神さまとの関係、族長たちの苦闘、エジプトからの脱出。
そしてイスラエルの民と神の契約が示され、カナンの地に入るところで終わります。
そう。五書は法律や戒律だけを記したものではないのです。
むしろ五書は、この物語や歴史に触れることで、
わたしたちに心を向ける神の姿をわたしたちの前に明らかにします。
だから「律法を大切にする」「律法に生きる」というとき、
それは本来的には狭量な厳格主義者になることを意味しません。
五書に描かれた、神との生き生きとした関係に生きることを第一とする。
それこそが「律法」を生きるということなのです。
もちろんそれは理想像ですから、そのとおりに生きることはなかなか難しい。
それでも、わたしたちの前にこの祝福は開かれています。
それを五書は、律法は、わたしたちに示しているのです。

今日のサドカイ派の人々の質問は、もしかすると彼らにとっては真剣かもしれません。
ですがやはり空論なのです。
そんな立場の人がもし目の前にいて、これを聞くなら、まったく違った重みをもつでしょう。
生きた言葉として、出来事として、これに向き合うか。
そしてこの事は、もしかするとただ論争に堕してしまっている時の、
現代の教会にも同じことが言えるのかもしれません。
聖書がわたしたちに与えられた、大切な基準であることは間違いがありません。
これをわたしたちの都合の良い読み方で捻じ曲げることは、あってはなりません。
しかし同時に、聖書の言葉を前にして、それをただ絶対化し、
狭量な厳格主義に陥るなら、それもまた間違いです。
それはただ聖書を表面上の言葉だけを問題として弄ぶ冒涜に過ぎないでしょう。
生きた言葉として聴くには、どのように聖書に向き合うのか。
それは信仰者に与えられた永遠の課題です。
ですが聖書とわたしたちの間にある、この緊張関係によってこそ、
聖書の言葉がわたしたちに神の言葉として開かれることになるのです。
わたしたちは聖書の御言葉に生かされている。
ここにある、信仰の事実、聖霊の働きにわたしたちは立つ必要があります。
祈りは、この時にこそ、求められているのではないでしょうか。

09/10/2024

先日の説教を公開します。
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2024年9月29日礼拝説教「平和の王の姿を見よ」ルカ19:37-44

本文

今日の箇所は、聖書を読む際に論争を呼ぶ箇所でした。
今日のイエスさまの言葉、特に後半の部分はエルサレムの破壊の預言でした。
イエスさまが十字架にかかられたのは、紀元30年頃だと考えられています。
そして実際に、イエスさまの十字架から30年余りを経て、66-73年にユダヤ戦争が、
それでも収まらずに115-117年第二次ユダヤ戦争(バル=コクバの乱)が起こります。
エルサレムは、徹底的に壊滅されて、「パレスチナ」=ペリシテ人の地、になったのでした。
ペリシテ人は、ダビデ王の時代からのユダヤ人の敵。その敵の土地となったのです。
ユダヤの人々にとって、考えようもないほどの悲しみと屈辱でした。
はたしてイエスさまは、そんなエルサレム、イスラエルの未来を「予言」されたのでしょうか。
そんなことが、後の時代で聖書が読まれる中で問題になったのです。
皆さんはどう思われるでしょう。

イエスさまの「予言」「超能力」の是非については、残念ながら結論はありません。
そのことを断言することは、その断言自体がまさに「超能力」の類だからです。
ただ今日の箇所を読む中で、この点は指摘することが必要でしょう。
今日のイエスさまの言葉を読む中で重要なこと。
それは当時のイスラエルはすでに、今日のイエスさまの言葉が現実感を持つほどに、
異常な興奮状態、緊張状態にあったということです。
イスラエルの人々にとって、ローマ帝国の支配は耐え難い苦痛だったのです。
メシアを巡る人々の異常な期待と興奮が、すでにエルサレムの街には存在していました。
歴史に残らない、無数の救世主運動もあったようです。
そういった無秩序な「暴動」の一つ一つに、権力者たちは神経をとがらせていました。
権力者とは、つまりローマ当局とユダヤ議会サンヘドリンの人々です。
そうして「メシア運動」という名の暴動はいつも鎮圧されていたのです。
鎮圧の中で、暴動の原因になったローマの圧政は変わることなく維持されていきました。
これではいつか、より大きな爆発が起こることは明らかです。
だからこう言うことができます。
今日のイエスさまの言葉は超能力のような「予言」だったかもしれません。
ですがあるいはこのような当時のエルサレムの状況から当然導かれる近未来の帰結を、
この時、周囲の人々に語られたということなのかもしれません。

もしそのように受け取るなら、
今日のイエスさまの言葉は当時の人々への重い問いかけになります。
この緊張が分からないのか。
このままいけばどうなってしまうのか。それが見えないのか。
この、もしも、はすでにあなたたちにも見えているはずだ。
それでもあなたたちには避けられないのか。
今日のイエスさまの言葉は、人々へのそんな問いかけになるものなのです。
彼らはそのことを感じることがなかったのでしょうか。
古代の人々は迷信的で合理的ではない、と侮るのは現代人の悪い習慣です。
2000年前に生きる人々にも、こういった社会の状況や、イエスさまの語ったことは、
現代を生きるわたしたち以上に、十分に伝わっていたと考える必要があります。
それでもなお、彼らは目の前に見えていたはずの危機を避けることができなかった。
目の前の戦争の危機に突っ込んで行ってしまった。
歴史が過ぎた後に過去を批判することはたやすいことです。
むしろ見るべきは人間が避けがたく抱える、難しさ、愚かさと悲しさなのかもしれません。

そしてだからこそ、わたしたちは思い出さなければならないのではないでしょうか。
今日の言葉に先立ってイエスさまが何をされたか。それが大切なのです。
先ほど述べました通り、当時の人々にとって、
来たるメシア、救い主への期待は、大きく、また現実感をもった生々しいものでした。
待ちに待ったメシアがついにやって来る。それはナザレのイエスというらしい。
メシアはどんなふうに神の都に入場するのか。わたしたちのところにやって来るのか。
それを人々は注意して見ていたのです。
イエスさまはこの時、どうされたでしょう。
イエスさまが、わざわざ弟子たちに命じて、近くの農家から無理を言ってお願いをして、
そうして人々に示したのはどんな姿だったでしょうか。
それは小さなロバの子に乗ったメシアの姿でした。
猛々しく力強い、軍馬にまたがって、征服者、支配者として入城するのではありません。
戦うことができない、いえもう戦う必要がないことを示すロバに乗って来る。
それは平和の王の姿に他ならないものでした。
人々が抱くメシアのイメージの中でも、きっと特別な意味を込めていたのです。
イエスさまはエルサレム入場の際、群衆から歓呼を持って迎えられました。
ですが、この瞬間がもしかすると、この世的な意味でのイエスさまの生涯の頂点でした。
ここから人々のイエスさまへの期待は急速にしぼんでいくとも言えるのです。
違う。この人は自分たちが期待した人ではなかった。
そうしてイエスさまが捕まり、十字架にかけられると、みなが去っていったのです。
イエスさまが示した平和の王の姿が、彼らには受け入れられなかったのです。

先ほど述べたように、このようなエルサレムの人々の姿を、
わたしたちは一方的に断罪することはできません。
現在のわたしたちはどうなのでしょう。
わたしたちは世に無数に見いだされるしるしに目を向けているのでしょうか。
気づいているのでしょうか。
いえ、むしろ問題なのは、そのしるしに気づいていないことではないのです。
見えているはずなのに、見えていない。
気づいているはずなのに、それを受け止めることができていない。
そのことこそが問題なのかもしれません。
平和の王の姿を知っている。
知っているが、それはわたしたちが求めるものではない。
そんな風に、イエスさまの示されたものを、無視している。
いやむしろ、その姿を侮蔑し、ロバに乗って平和を示す主に石を投げつけようとしている。
2000年後のわたしたちが古代のユダヤの人々を思うように、
2000年後の人々は、わたしたちを哀れに見つめるでしょうか。
なぜこれが分からないのだろう。なぜわかっているのに変えられないのだろう。
その時代の中で、誰も何も語らなかったのだろうか。何も示されなかったのだろうか。

この問いに対して、わたしたちは答えなければならないのでしょう。
信仰によって答えなければならないのでしょう。
わたしたちは平和の王としてのイエスの姿を、今見ています、と。
聖書を通して、わたしたちは、今何をしなければならないかを、示されています、と。
信仰を引き受けて生きることは、そのような生き方へとわたしたちを開きます。

どうでしょう。何とも、自分自身の弱さ、気づけなさ、過ちを悔い改める他ないことです。
だからわたしたちは祈ります。
平和が来ますように。わたしたちにできることは何でしょうか、と祈ります。
聖書を通してイエスさまの平和の王としての姿を改めて見つめます。
この切なる祈りなくして、平和は実現しないと、わたしは思うのです。
昨今の戦争の様々なニュースを憶えて、本当に深い痛みを憶えます。
イエスさまが今日、戦争が行われているの街の中へとまさに入り歩まれていることを、
信仰の目を通して見たいと思います。
この痛みが、わたしたちの中で、信仰を通して、生きたものとなり、
わたしたちが今日生きることに響くことを、一人の信仰者として、わたしは願っています。

31/08/2024

本日の説教を公開します。
2024年9月1日礼拝説教「神の国と賛美を生きること」ルカ18:35-43

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イエスさまはエルサレムへの旅を続けます。
今日の物語は、エリコの町に近づく中での物語でした。
エリコは、死海から15キロのところにある、古代オリエントの中でも最も古い町の一つです。
荒れ野の中のオアシスに栄えたのがエリコでした。
善きサマリア人のたとえ(ルカ10章)も、エルサレムからこのエリコへの途上の道です。
エルサレムとエリコを繋ぐ道は20キロほどあり、勾配の激しい、荒れ野の道です。
辺りには人はおらず、隠れるところも多かったため、強盗が巣食っていました。
イエスさまは、旅を続ける中でこの地域を通られたのでした。
ルカ18章は、神の国について述べている箇所でもありました。
今日の物語は、一体どのように、神の国と関わるのか。
そのことを、共に考えてみたいと思います。

イエスさまはエリコの町に近づいていきました。
イエスさまのまわりには弟子たちがおり、群衆がいたでしょう。
その行列が、人々にどのような印象を与えたか、なかなか興味深いものだったでしょう。
さてそのとき、ある盲人が道端で物乞いをしていたとあります。
当時の病人は、汚れた者と見なされ、町の中に入ることが許されませんでした。
「また見えるように」とも語っていますから、中途失明者でしょう。
彼が物乞いをしていたこと、また癒しを切望していたことは容易に理解できます。
群衆が通り過ぎていくことに気づいて、この人は訊ねます。
「これは、一体何事ですか」。
群衆、あるいは弟子たちが答えます。「ナザレのイエスのお通りだ」。
この言葉を聞くと、この人はこのように叫び始めたのでした。
「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。
この人の耳にもイエスさまのことが届いていたのでしょうか。
分かりませんが、とにかくこの人はイエスさまに自らの希望を託し、
必ず癒していただけるはずだと信じて、声を上げたのでした。
多くの人が彼を叱り、黙らせようとします。
しかし彼は構いません。必死の想いだったでしょう。
「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」
そこでイエスさまは立ち止まって、この人を連れてくるように命じられました。
イエスさまは聞きます。
「何をしてほしいのか。」
「主よ、(また)目が見えるようになりたいのです。」
イエスさまは言われました。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
盲人はたちまち見えるようになりました。
そして神をほめたたえながら、イエスさまに従ったのでした。
これを見た群衆は、こぞって神を賛美した。
そのように今日の物語は締めくくられています。

弟子たちにとって、この盲人はイエスさまの旅を妨げる邪魔者に過ぎません。
これは、子どもたちへの祝福の場面でも描かれた様子です。
あの時、祝福を求める子どもたちや母親たちは、旅の邪魔者だったのでした。
しかしイエスさまは言われます。
「子どもたちをわたしのもとに来させなさい。妨げてはならない。
 神の国はこのような者たちのものである。」
そんなイエスさまと、今日の姿は重なります。
イエスさまは遠ざけられ、軽んじられた人に目を向けられました。
そしてその人にこそ手を伸ばされたのです。
そうしてその癒しと救いが、この人の信仰によるものだと宣言されたのでした。

さてこの事を、イエスさまの神の国の宣教と共に考えたいと思うのです。
イエスさまは神の国を人々に宣べ伝え、示される中で、旅を続けておられました。
ルカ18章では、そのことをよく見ることができたように思います。
神の国とは、神さまの御心によって、その内に生きることだと、
ここ数週間の説教の中で、何度か触れさせていただきました。
今日の物語の中で、神の国という言葉は直接には出てきません。
しかしこの病者の癒しを通して、よく示されていないでしょうか。
「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」。
救いを考える時、それは深く神の国と関連しています。
つまり今日のところから、考えることができるのではないでしょうか。
わたしたちの救いと、神の国、つまりわたしたちが神の御心を生きるとは
いったいどういったことなのか、ということです。
この人にとって、それは「(また)目が見えるようになること」以外にはあり得ません。
まずすべては、そこにかかっているのです。
そこにある真剣さと、奇跡の驚きを、まず十分に受け取ることが必要でしょう。
今日のこの人のように、わたしたちは思いもかけない苦しみと出会うことがあります。
そこから癒される時、誰もがそこに主の恵みと救いの中にいることを感じるでしょう。
その驚きと真剣さを、まずは感じることです。

そうして考えます。
イエスさまが示そうとされた神の国、神の御心によるわたしたちへの取り仕切り、
それは一体何だったのでしょう。
わたしたちにとって、目をふさいでいるものとは何でしょう。
そしてそれがやがて必ず取り除かれる。わたしたちは救われる。神の国に迎えられる。
そんな期待と希望を、今日の物語はわたしたちに抱かせます。
目をふさいでいるものと共に、この救いとは、わたしたちにとって一体何なのか。
わたしたちは真剣にこの事を考える必要があるでしょう。
わたしたちがこの盲人のように、真剣に願い求めているものは何なのか。
これはなかなか、難しい事柄です。答えも簡単には出ないでしょう。
しかしわたしたちが、真剣にこの問いに向き合うことは必要で大切なことです。
神さまの前で生きる中で、わたしたちが何を求めているのか。
その中で、わたしたちはどのように生きるようにと、招かれているのでしょう。
そのことを省みることで、わたしたちは信仰を抱いた生き方とは、
わたしにとって、一体どのようなものなのか、そのことを示されることになるはずなのです。
そんな皆さんの、向き合うもの、必要としているものと出会えることを、心から祈ります。

さて、そのように今日の物語りを見る時、その最後はまったく示唆的です。
癒されたこの人は「神をほめたたえながら、イエスに従」うようになり、
「これを見た民衆も、こぞって神を賛美した」とあります。
先ほど述べたように、何が目をふさいでいたのか。
またそれが拭われ、癒され、救われることが、わたしにとって一体何を指しているのか。
それは人によって、異なるものを指すこともありうるのでしょう。
わたしたちの信仰は誰かのコピーではありません。
一人ひとりの、神さまとの出会いの中で、
一人ひとりのかけがえのない出来事として、起こるからです。
ただ、その中で一つ言えることがあるのです。
この癒し、救い、つまり神の国、神の御心の内に生きることへと招かれること、
それは神への賛美に満たされてあるものなのだ、ということです。
しかもこれは単なる賛美ではありません。
他の誰でもない、わたしが救われた。
このわたしの苦しみに、向き合ってくださった方がいる。
そうしてわたしは救われた。あるいは救われた人がここにいる。
その事実と驚きと、確信に根ざしたものとして、表される賛美なのです。
この賛美に根ざして生きる時、わたしたちは神の国の民なのでしょう。
これは難しいことでしょうか。どうでしょう。
でもきっとわたしたちは、信仰の内にこの喜びを、いつでも、今からでも、
新たにつかんだり、再びよみがえらせることができるはずです。
神を賛美しながら、生きることができるはずです。
そうして生きる時、わたしたちはきっと、信仰において、
イエスさまに従って、その神の国を目指す旅路に共に連なることができるのでしょう。

15/07/2024

昨日の礼拝説教を公開します。
昨日は、洗礼式がありました。

それを意識した説教になっています。

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2024年7月14日説教「見よ、神の国は、あなたがたのその中にある」ルカ17:20-37

本文

今日、この箇所をわたしたちが共に味わうことは意味あることでしょう。
イエスさまの働きは、人々に福音、神の国を指し示すものでした。
この宣言が、多くの人を引き付けるものとなったのでした。
「神の国」がわたしたちのところに来る。神の御心がわたしたちに実現する。
ここに思いを寄せるその希望と切実さを改めて思います。
イエスさまへの今日の質問は、そんな人々を思い描くことなしに理解できないでしょう。
「ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねた」(ルカ17:20)
ファリサイ派の人々は、福音書の中でイエスさまの論敵としてよく登場します。
だからわたしたちは反射的に、彼らを敵のように見なして読んでしまうことがあります。
でも彼らの全員がイエスさまを完全に敵視していたわけではありません。
イエスさまも、彼らを完全に排除しようとはされていません。
イエスさまのまわりには様々な人が集まっていました。
イエスさまの言葉に関心を持っていた人も、半信半疑の人も、そこにいたということです。
懸命にイエスさまの言葉を求める中で、なおそれを信じることができずにいる。
そんな人たちもイエスさまのもとにいたはずなのです。
ですから今日のファリサイ派の人々の質問は揚げ足取りのためのものではないでしょう。
神の国はいつ来るのか。それが来たらどう変わるのか。
そのことへの期待と不安が混じった問いなのでした。
そしてそれは、彼らがこう思っていることの裏返しでもありました。
イエスさまは「神の国は近づいた」と人々に教えている。
だが自分たちはその外部にいる。まだ神の国は自分たちには遠い。
だから彼らは、神の国がいつ自分たちにも来るのかとイエスさまに聞いたのでした。
これにイエスさまは答えます。それは彼らの想像しなかった答えでしょう。
イエスさまはこのように答えられました。(17:20-21)
「イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。見よ、神の国は、あなたがたのその中にあるのだ。」」(私訳)
最後のところはわたしが訳した言葉に代えさせていただきました。
「見よ、神の国は、あなたがたのその中にある。」
目の前の、質問を向けた人々にイエスさまはこう言われるのです。
よく見なさい。
まさに、今、あなたの目の前に、神の国がある。それはあなたの手中にあるのだ。
何という驚くべき言葉でしょう。劇的な言葉でしょう。
しかし神と共に生きる生き方、神さまによってわたしたちのいのちが捕まえられ、
祝福されている、その生が、まさに目の前で起こっている。
それが今そこに、わたしたちの生の只中に、すでにあるのだ。
そのことをイエスさまは宣言するのです。
この質問をしたファリサイ派の人々は、おそらく神の国が自分のところにやってくることを、
深い信仰と共に、待ち望んでいた人なのでしょう。
それがこの時代の信仰深い人の態度の一つでした。
しかしこのイエスさまの言葉を前にしたとき、その信仰の姿勢は変えられます。
神の国をその場で待ち望む姿勢から、今、神の国から始めることへと変わる。
今の現実を、変えて、新しい生き方へと導く言葉。
それが今日のイエスさまの言葉なのです。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
見よ、神の国は、あなたがたのその中にあるのだ。」

どうでしょう。今日の言葉は、まさにイエスさまの信仰、
イエスさまが神さまの御心や、神さまの働きをどう捉えていたか。
またその神さまに従ってわたしたちがどう生きるようにと考えていたかをよく表しています。
この神さまの御心や働きを、神の国と言います。
そしてイエスさまはこの神の国、神さまのわたしたちへの御心を捉え、それを生きていた。
まさにそのようにわたしたちに迫って来るもの、近づいてくるもの、
まさにわたしたちのその最中にあるものとして、捉えていたのです。
これがいったい何なのか。
キリスト教は2000年の間、このイエスさまの信仰の信実を追い求め続けています。
キリスト教は、このイエスさまの信仰の信実を、生きようと願い続けているのです。
そのイエスさまの信仰を通して、わたしたちがいかに神さまに向き合うかが示されている。
このイエスさまの信仰を通して、わたしたちへの祝福と救いがある。
そのことに導かれる生き方とは、何なのか。そのことを求め続けているのです。
その生き方が、どのようなものになるかは、イエスさまの生き方を、
わたしたちがどのようなものだと捉えているかを、あわせ鏡のように表すでしょう。
信仰においてそのことが常に問われています。
答えは簡単にあるものではありません。
でもそれを求め続けることが大切なのでしょう。

信仰において、わたしたちは誰もが道半ばで、半人前です。
洗礼を受けていない人も、受けたばかりの人も、
信仰の生涯を歩み切ろうとしている人でも、その意味で違いはありません。
至らぬわたしたちですが、信仰によって共にイエスさまの歩みに連なる者でありましょう。
そうする中で、イエスさまと共に生きようとするなら、
きっと今日のイエスさまの言葉は、わたしたちの中で真実になります。
謙虚な心をもって、喜びと共に、真実になります。
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。
見よ、神の国は、あなたがたのその中にあるのだ。」

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